祈りについてお話をします。
宗教にとって大切なのは祈りです。祈りは、人が生きていくために必要な血液と同様に、霊性にとっても欠かせないものと言われます。祈りがない宗教は存在しないと言えます。また、祈りは尊い方との対話であり、その対話は高度な修行を積んだ人でなければ成就しないとされる教えもあります。しかし、聖書には次のように書かれていますので、引用いたします。
「あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」
(マタイによる福音書6章6節)
このみことばから考えると、祈る際の対象者は、イエスの話を聞こうとして集まった群衆であると同時に、弟子たちに対しても指示されています。よって、対象者は宗教者に限らず人々全般であり、さらに「あなたがたの父」を知る者が対象となります。
この群衆の中には異国の人々もいたかもしれません。そう考えると、対象者はそこに集まった人々になります。したがって、要約すると、イエスが語る『父』とは聖書の神、創造主であるとされています。その聖書の神様が分かる人は誰であっても祈る事ができるとなります。
次に、イエスの弟子たちが勧める祈りについて、聖書から見ていきましょう。
「私は、あなたがたのことを思うたびに、私の神に感謝しています。
あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、」
(ピリピ人への手紙 1章3~4節)
上記のみことばは、パウロが書いたものですが、パウロが信じている神様に向けて祈っていることを示しています。パウロが祈る内容は、ユダヤ人であるクリスチャンの事であり、同じく異邦人クリスチャンとなった人々を覚え祈っています。それは、日常的に良い働きを行い(つまり証となる生活を送る)、その結果として恵みと平安が与えられるようにと言う事です。
さらに、
「兄弟たちよ。私の心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らの救いです。」(ローマ書10章1節)
「彼らの救いです」と書かれている文章を読むと、イエスを知らない人々のことも含め、覚えて祈っていると書かれています。そこには二つの事を考察できます。一つは、信じた人が最後まで信仰をもって救いに達することです。二つ目は、私たちは信じた人々のことだけでなく、まだイエスを知らない人々のことも覚えて祈るです。
a 信じた人が最後まで信仰をもって救いに達することです。
b まだイエスを知らない人々のことも覚えて祈るです。
パウロのように、強い意志を持って祈る心の姿勢には基本的な姿勢が大切であり、継続する祈りにはしっかりとしたイメージが必要です。そのみことばは次の通りです。
「私の祈りが御前への香として、手を上げる祈りが夕べのささげ物として立ち上りますように。」(詩篇141篇2節)
別に修行する必要も、特別なことをする必要もありません。ただし、神聖な時間であるということに自覚を持つべきです。あるいはこの時間を礼拝の一環と考える必要があります。
次のみことばからその姿勢を見る事ができますので朗読しましょう。
「彼は敬虔な人で、家族全員とともに神を恐れ、民に多くの施しをし、いつも神に祈りをささげていた。」(使徒の働き10章2節)
ここに登場する「彼」とは、コルネリウスのことであり、ローマ軍の百人隊長でもあった彼は敬虔な人物として描写されています。彼は仕える姿勢を理解していたため、きっと祈るときの姿勢や取り組みも特別な時間として過ごしたことでしょう。