前回のお話の続きです。ここでの鍵は信仰と倫理です。
私たちの時代でもちょっとしたことで、信仰的にどうなんだろうと思うことがあると思います。
倫理も含め、神様を愛するように、隣人をも愛することを学びます。
テキストは後ほどに。
上記をふまえて
今回のみ言葉です。コリント人への手紙第一8章全体です。
この箇所の内容は偶像にささげられた肉を食べて良いのかという話題です。この件に関しては既に答えが出ています。それは使徒の働き15章20節に書かれています。
ただ、偶像に供えて汚れたものと、淫らな行いと、絞め殺したものと、血とを避けるように、彼らに書き送るべきです。
使徒の働き 15章20節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
上記はエルサレム教会で、異邦人が救われるという出来事から、ユダヤ人がそれを割礼なしに認めるのかの有無を話し合われました。結果、割礼などの儀式等を求めないという判断となり、そのかわり上記のことは守るようにとの内容を世界に広がる宣教に足して守るようにとバルナバとパウロに委ねます。その後、バルナバとパウロは意見分かれして別々に旅行を続ける中、パウロに起きた出来事です。
【聖書】
- 次に、偶像に献げた肉についてですが、「私たちはみな知識を持っている」ということは分かっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。
- 自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。
- しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。
- さて、偶像に献げた肉を食べることについてですが、「世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しない」ことを私たちは知っています。
- というのは、多くの神々や多くの主があるとされているように、たとえ、神々と呼ばれるものが天にも地にもあったとしても、
- 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、この神からすべてのものは発し、この神に私たちは至るからです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、この主によってすべてのものは存在し、この主によって私たちも存在するからです。
- しかし、すべての人にこの知識があるわけではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんできたため、偶像に献げられた肉として食べて、その弱い良心が汚されてしまいます。
- しかし、私たちを神の御前に立たせるのは食物ではありません。食べなくても損にならないし、食べても得になりません。
- ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい。
- 知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、その人はそれに後押しされて、その良心は弱いのに、偶像の神に献げた肉を食べるようにならないでしょうか。
- つまり、その弱い人は、あなたの知識によって滅びることになります。この兄弟のためにも、キリストは死んでくださったのです。
- あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。
- ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。"
コリント人への手紙 第一 8章1~13節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
この文章は、コリント人への手紙第一の8章1~13節に記された内容です。文章は「偶像に献げた肉」に関する議論を中心に展開されています。著者は、知識と愛、神への信仰、そして兄弟愛について説明しています。文章は以下の要点を含んでいます。
- 知識と愛の関係:知識(法的主義と反法的主義)は高ぶりをもたらし、愛は人を成長させる重要な要素であることが強調されています。例)聖書の中では律法学者とイエスの議論で知ることができます。 1節
- 神への愛と知識の限界:人が自分を知識豊かだと思う場合でも、知るべきことはまだ多く残っており、神への愛が重要であると述べられています。 2節
- 神の知識と愛:神を愛する者は神に知られているとされ、神への愛と関係性が強調されています。 3節
- 偶像の神々の実在性:世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しないことが指摘されています。 4節
- 神の存在と役割:唯一の神と主である父なる神と主イエス・キリストの存在と役割が説明されています。 5節~6節
- 弱い良心と罪:偶像に献げた肉を食べることが、弱い良心を傷つけ、罪を生む可能性があることが述べられています。 7節
- 兄弟への配慮:食物が他の兄弟をつまずかせないように配慮する必要があると強調されています。 8節
- キリストの犠牲と兄弟愛:キリストが兄弟たちのために死んだことを思い出し、兄弟への罪についての意識が説かれています。 9節~12節
- 食物と兄弟愛:食物が他の兄弟をつまずかせる可能性がある場合、食べるかどうかを検討し、兄弟愛を優先する決意が示されています。 13節
文章は、信仰と倫理に関する深い考えと指針を提供しています。
この文章の文脈を考えると、肉を食べることについては、文中で示されている側面に注意を払う必要があります。ルカは、パウロの言葉を文章にしたとき肉を食べること自体には問題がないかもしれないが、それが他の兄弟姉妹の信仰や良心に影響を与える可能性があることに注意を喚起しています。特に、弱い良心を持つ人々がそのような行動を見て、自分も同様に行動する可能性があるとして、その配慮を求めています。
結論的には、肉を食べることそのものには制限がないとされていますが、他の人々の信仰や良心を尊重し、それが他人に影響を与える可能性がある場合は、兄弟愛を尊重して慎重な行動をとるべきだとされています。つまり、自分の行動が他人に対する優しさや配慮に反しない範囲内で、肉を食べるかどうかの判断を行うよう促されているのです。
キリスト教倫理
「Christian Ethics」は、イエス・キリストの福音によって罪から解放された人々に与えられている道徳的義務の総称であり、聖書の記述から導き出された倫理的規範に基づいて行動の善悪を定義するものです。キリスト教倫理は、聖書を通じて示された啓示や神の教えに基づいて、人間の道徳的義務を確立し、行動の善悪を指し示すものであり、愛が中心的な規範とされます。
この倫理は、個人の信仰や他人との関係、社会的状況などに対して適用されるものであり、徳や道徳的性質なども議論されます。愛の戒め、神への愛、隣人愛などがキリスト教倫理の中で重要な位置を占めており、これらを基にして行動を決定します。
キリスト教倫理は、信仰や倫理的規範としての役割を果たすだけでなく、キリスト教の教理や救いの理解とも密接に結びついています。徳や道徳的規範は、キリスト教の神の性質や救いのわざに根差して理解される要素であり、人々の行動指針として重要な役割を果たしています