2023年元日 「私たちの神、主の名によって」

仙台宣教センター 2023年御言

 

ミカ書4章5節 

どの民もおのおの、自らの神の名によって歩む。私たちは私たちの神、主の名によってとこしえに歩む。

 

2022年の御言<みことば>は、

「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、

私たちは待ち望んでいます。」新約聖書ピリピ人への手紙 3章20節を引用しました。

「私たちの国籍は天にあります。」この事の意味は、イエスさまを、私の神さまと信じたその時から、この世に従属するものではなく、イエスさまがおられる天国につながり、その法律にならって生きて行く決意表明です。

その法律とは、イエスさまの教えであって、人間にとって大切な戒めで、人類や被造物を真に生かす隣人愛に溢れたものです。それから、私にとってあらゆるしがらみ、つまり苦しむ元凶も、救い主によって解決すると聖書に書かれていてその実現を信じています。「主イエス・キリストが救い主として来られるのを、

私たちは待ち望んでいます。」

 

 先日はクリスマスでした。世の中はこのシーズンが終わると早々に年末年始の準備で全ての様相が変わります。少し残念です。いやさみしい思いがします。毎年の事とは言え仕方がないと思う自分にも悲しみを覚えます。神さまが人類のためにひとり子をお与えになった出来事が伝わらないのは悲しいですね。私の責務ですがその事を伝えるために踏ん張りたいと思います。(その人の人生を否定する仕方の伝道、強制的な行動や言葉で伝えようと思いません。)

 

そこで次の御言です。

どの民もおのおの、自らの神の名によって歩む。私たちは私たちの神、主の名によってとこしえに歩む。ミカ書4章5節 

 

「どの民」とは隣国、民族を指しますね。そこには国、民族性において古くからの風習があります。その風習に神々が存在するのです。ここで重要なのは、私は人が想像した、作り上げた神を信じません。

ですが長い時間をかけて受け継がれた風土や文化を闇雲に否定することはしません。ですから、私が信じている神さま、つまり私と神さまとの関係を、理解して頂けるように表現し、発言していきたいと考えています。そこでこの御言です。

 

 ミカがいた時代を想像しますと、多文化が行き交う時代です。一神教だと宣言しても、神殿周辺には他の神々が置かれます。時には有力者によって持ち込まれた祭りにはユダヤ人であっても参加する。そして今の環境を有益にするために敬虔(けいけん)でない信仰者は事情を優先して受け止めていく。またユダヤ教であっても伝説や口伝のみの世界では、神さまの顕現が無く、要となる祭司までもが世俗的になれば信仰が薄れていくものです。こう言った時代は心理的にも何ら変わらずよくある話です。

ですから、私はあえてこの御言を掲げました。

 

 私たちはいかにして「主の名によって歩む」のかです。信仰が萎えることもあります。世俗的な考えに流されることもあります。ですが、その都度に聖霊様によって気づかされて祈り信仰の歩みを続けることができます。

「気づかされて祈る」立ち位置は、いつも十字架のふもとであって、私たちに御手があてられるのです。

その位置とはヨハネによる福音書19章30節です。

「イエスは、この酢を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」

 

ミカ書では次のようなことばがあります。

「何をもって主にまみえいと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くすいけにえか、一歳の子牛か。果たして、主は幾千の雄羊幾万のしたたる油を喜ばれるだろうか。私は自らの背きの罪のために長子を自らの罪のために胎から生まれた子を献げるべきか。人よ、何が善であるのか。そして、主は何をあなたに求めておられるか。それは公正を行い、慈しみを愛しへりくだって、あなたの神と共に歩むことである。主の声が町に向かって呼びかける。あなたの名を畏れ敬うことが知恵である。聞け、部族と町の集会よ。」

ミカ書6章6節~9節

 

これが主の名によって歩むということ、十字架を担いて歩むと言う事です。

他者ではなく、自分を見つめて歩みましょう。

 

中澤竜生