2022年5月22日午前0時より視聴可能です。
礼拝メッセージですが、聖書から学ぶを題にお話を続けています。
"だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。
モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。"
ヨハネの福音書 3章13~17節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
ここの聖書箇所は、ニコデモが人目を避けてイエスに会いにいく場面です。ニコデモと云えば、ユダヤ教の教師であり律法学者でもあります。そのような彼がなぜイエスに会いに行ったのかは推察でしかない。ニコデモは噂で流されない、噂となる当人を直接会って話を聞くという性格であったのかもしれません。それでも立場があることから、人目を避けて会いに行ったのだろうと考えます。そのような場面を想像しながら読むと面白いし、新たな見解もあるかと思います。
- 天から下って来た者、人の子は別です。 福音書は、イエスの事を時に「人の子」と書きます。つまり御子でもありますが、マリアを通して誕生したことから人の子とされ、聖書解釈によれば神様から創造された第一アダム、人類に原罪を植え付けた第一原因であって。第二アダムは罪を贖う人として降って来られた。聖書はイエスが天上におられたこと、創造主をよく知る人、御子と紹介する。
- 民数記21章のこと。青銅の蛇の話は民数記21章を朗読下さい。掻い摘んで書きますと、イスラエルの民はモーゼに引率され選民としての教育を受ける。ですが人間はそんな簡単に生き方を変える事などできない。モーゼを何度も失望させ、神様の教えを裏切る。そこに民数記の話が出てくる(民21章4節、5節)罰(燃える蛇、毒蛇)を受けた。燃える蛇とは、毒によって異常なほどの熱が出ることからそのように呼んだのだと思います。民を囲むかのように大量の毒蛇がいたのでしょう。ここから逃げることができない。追い詰められた民はモーゼに許しを請い嘆願する。そこで青銅の蛇が掲げられた。たとえ噛まれたとしても癒されるシンボルとなった。この箇所を通してイエスは十字架にかかる自分の姿も同じであると預言します。ですがニコデモには到底理解することは出来ませんでした。ですが十字架にかかる姿を見て、ニコデモは信じる確信を得た事でしょう。その効果は今も有効なのです。
- 万人救済論説が使徒の時代からありました。つまり何人も罪に定められないと言う教えが広がります。このような説は時代を超えて繰り返し唱えられました。現代も100年前の神学者ウィリアム・バークレーも唱えました。彼の全てを批判し間違いであるとは言いませんが、万人救済論やセカンドチャンスには異論を唱えるしかありません。なぜなら聖書にはそのような一説がないからです。そうであってほしいと言う願望が時に越える解説をすることがあります。今回の聖書箇所には明らかに信じるものと定義されており、信じる者が滅びないと書いているのです。私たちは救われる、救われてほしいから福音を伝える必要があるのです。
- そして、伝えることは、世が救われるためにです。決して我々は世を裁くことをしてはいけないのです。なぜならイエスも裁く事をせず救いを達成したからです。