今回も山上の垂訓と呼ばれる「主の教え」から、
律法の実践で三つの善行をみていきます。項目は以下の通りです。
① 施し
② 祈り
③ 断食
パリサイ人や律法学者が語る律法関する思考とイエスが教える律法とは、何が違うのかをマタイの執筆を通して説明されている。
施し 偽善者と呼ばれる宗教者は周囲に見える形で施しや献金を捧げる。例えば献金ですが2節に「ラッパを吹く」場面があります。これは神殿境内に13の献金箱が用意されており、多額の献金をする場合にのみラッパを吹かせ、献金箱に歩み寄るというものです。このラッパで人々の関心は捧げようとする人物に献金額とともに目がいくということです。イエスさまは「彼ら(偽善者)はすでに自分の報いを受けている」と言われるのです。献金は神さまに献げるものであって、神さまはその献金をどのような状況下であろうとも献げる思いを見て知っておられます。それに施しも捧げようとする対象者のために祈って示されたことです。示されたのは神さまです。ですから施しを捧げる心を深くご存じであると言うことです。「隠れたところで見ておられるあなたの父が、」というのがその意味です。私たちの善行は神さまに示されて、自らの判断で謙虚に執り行いたいと願います。
祈り 彼らは人々に見えるように、わざわざ会堂や大通りの角に立って祈ります。そこには意図的で偽善と云う姿が見えるとイエスさまは云うのです。この箇所では祈りの姿勢が描かれています。つまり祈るとは ① 神さまに向けて1対1でもあれば、②
共同体を代表とする祈りもあります。いずれも祈りは、神さまに向けて祈ります。そこには誠実な姿勢であると考えます。イエスさまが教える祈りの前にも「偽善者」と云わざるを得ない祈る姿勢、動機が指摘されています。祈る前から心を見られる神さまは正しい姿勢を求められるのです。その上で祈りの基本を教えられました。
1, 呼び掛けから始まる祈り。 誰が対象者なのか、これはとても大切なことです。「天にいます私たちの父よ」
2, 「私たち」とあえて付け加えられていますが、それは共同体(クリスチャン)の神さまだと云うことが分かります。
3, 「御名」とは、クリスチャンであれば誰しもが尊いお方であることを認める大切な言葉です。誰もが汚さぬようにうやうやしく思う事です。親しみを持ちつつも、尊く捉え申し上げるおん名であります。そして私たちもそのおん名によって清くあるように。「聖なるものとされますように。」
4, 「御国が来ますように。」父なる神さまが主権となる国が訪れるようにと思うのは、クリスチャンであれば当然です。そこでは8つの幸いが評価される国です。御国とは、終末に訪れる神の国と、私たちが現代に神の国をつくろうとするものがあります。その2極に対する信仰を持つ告白です。「御心が天で行われるように、地でも行われますように。」
5, 「日ごとの糧を、今日も与えて下さい」 8節には「求める前から、あなたがたに必要なものを知って」と言われています。ですが、敢えて祈るようにと教えています。これは神さまに祈りを捧げることによって繋がりを感じる大切な行為となります。しかも「私たちの」ですから、共同体(クリスチャン)として応えて下さる神さまがおられるのです。神さまは多数の祈りを聞いてくださっているのです。
6, 私たちの負い目をお赦しください。私たちも、赦します。 山上の垂訓の冒頭でもお話しになったことが祈りに加えられています。それほどにこの事は重要なことだと知りましょう。最後にも書き記します。
7, 私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。私たちには何かと試練が訪れます。その試練とは、自らが招いた事や、他から受ける試練、災難もあります。何故起きているのか、苦境に遭うのかを熟慮し、それが自らの悪であれば根元を絶って主の救いを受ける者となりましょう。その悪を発見できることは、まさに聖霊さまのお働きによるものです。
8, 「国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。」とは、後に足された神さまへの賞賛です。主の祈りといえば最後までの言葉を含めた丁寧な祈りであることに間違いはありません。
三つの善行の最後には、
断食 ここにも偽善者と書かれています。あたかも断食をしておりますという態度や表現は既に報いを受けていると書いています。ここでも偽善者と書かれていることに注意をしましょう。偽善者は人に見せることで善行を達成させようとします。神さまは心を見られます。律法を守っても、その心が神さまに向けての正しい姿勢でなければ意味がなくなる。同じ断食をするなら正しい信仰を持って行うと良いでしょう。断食は人を謙遜へと導きます。ただし断食を達成した後に人から称賛を受けるべきではありません。だけれでも断食は、神さまと私が世俗のことを絶って向き合える(霊的)な良い時間です。断食が必要と判断した場合は適切なアドバイスを受けて行いましょう。
さて最後に、
14節、15節の御言はもっとも大切です。
もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。
第一に神さまを思い、それと同様に隣人を思う。律法的ではなく敬虔的で、思いやりと優しさを兼ね備えた心、たましいから仕えたいと考えるのです。
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