聖書のみことばに立って、聞いた福音に望みを抱く

私の心には福音があり、それは一体です。

 

ただし、あなたがたは信仰に土台を据え、堅く立ち、聞いている福音の望みから外れることなく、信仰にとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられており、私パウロはそれに仕える者となりました。 

コロサイ人への手紙1章23節

 

言葉のkeywordは、信仰・土台・堅く立ち・聞いている福音の望み・仕える者 です。

 

 

Ⅲ.堅く立ち・聞いている福音の望み あなたの人生にとって「土台の上に堅く立つ」ことは、どのような時代や状況が訪れてもその土台に立ち続けることを意味します。この表現は、旧約聖書の時代に生きた人々へ向けて何度も語られた神からのメッセージです。不信仰、優柔不断、躓きを偶像崇拝や姦淫と同一視し、神に対する忠誠を説いた預言者たちは、ユダヤの民に対してこれらの行為を批判しました。パウロは、このような状況を再び招かないよう願っていました。

 これは「聞いている福音の望み」と関連しています。レビ記8章15節では、アロンをはじめとする祭司たちが神の務めに任じられる際に、神から特定の指示が与えられています。

それが屠られると、モーセはその血を取り、指でそれを祭壇の四隅の角に塗り、こうして祭壇から罪を除き、その残りの血を祭壇の土台に注いだ。このようにして祭壇のために宥めを行い、これを聖別した。

これは、土台を清める行為です。実際に、この儀式はイエスの十字架による業と相似しており、福音の言葉を通して理解されるものです。福音とは、良い知らせを意味します。この良い知らせとは、神と私たちの関係が特定の方によって回復されたことを指します。この特定の方を紹介しているのが福音書です。それはイエス・キリストです。エロヒーム(神)はイエスをこの世に遣わし、イエスを通じて私たちとの関係を再び回復させました。この話題は、キリスト教内でも意見の分かれるものかもしれませんが、私は次のように考えます。つまり、私たちの心の土台、精神的な基盤、またはさまざまな考えの根底にある「土台」には、イエス・キリストの血、すなわち十字架で示された苦痛、悲しみ、慈悲、そして犠牲的な愛が塗られていると思っている。考えているのかどうかです。もし塗られているならば、それは聖別されていることを意味します。しかし、私たちは人間であり、しばしば優柔不断な存在です。そのため、「堅く立つ」ことが勧められているのです。聖別は自動的に続くわけではなく、常に自らを確認し、高い意識を持ち続けることが重要です。

 

Ⅳ. 福音の望みから外れることなく、信仰にとどまる  

現在はレントの時期です。この期間は、イエス・キリストの復活に先立ち、受難週を経て、最終的に十字架での死を迎えることになります。これらの悲しく切ない出来事が、実は大きな希望につながっているのです。ベソラ(בשורה)は、良い知らせや喜ばしい消息を意味し、イエス・キリストの生涯、特に十字架での犠牲と復活を遂げたことを指します。最も重要なのは、その行為が何のために行われたのかです。私たちは、その意味を深く理解するために、何度も十字架の足元に膝をつく必要があります。その重要な意味とは、

1. 罪の赦し イエスの十字架は、人類の罪を贖う(償う)行為として理解されています。キリストが罪のない者として罪を背負い、十字架での死によって人類の罪を贖うことで、神と人との間の関係が修復されました。これにより、信じる者は罪の赦しを受けることができます。

2. 愛の最大の証 イエスの自己犠牲は、神の無条件の愛の最大の証とされています。神が自らの一人子を私たちのために送り、十字架で死なせることによって、神の愛の深さを示したと信じています。

3. 新しい生命の扉を開く 十字架とそれに続く復活は、死を超える新しい生命の可能性を示します。イエスが死から復活したことにより、信者もまた永遠の生命を得ることができると希望が与えられます。

4. 和解と平和 十字架は、神と人との間、また人と人との間の和解を象徴しています。イエスの犠牲によって、分断された関係が修復され、平和がもたらされます。

5. 信仰の模範 イエス・キリストの十字架上の犠牲は、信仰と服従の究極の模範を示しています。イエスの姿勢は、神への絶対的な信頼と従順の姿勢を示しています。

 

「信仰にとどまる」ことは、イエス・キリストによって成し遂げられた出来事が過去に起こったものであり、旧約聖書の時代の人々がイエスの行為に望みを託していたように、現代の信者もこれらの成就された出来事から逸れることなく信仰を維持するべきであると説いています。パウロは、この信仰を持ち続けることを強く勧めています。