聖書の神と人とには隔てがある。人と人にも隔てがある。

↓下記は編集済の動画です。

↓ライブ収録動画

本日の話に関して訂正を加えます。
隔てという意味は、「隔て」とい言葉は実は「隔たり」という言葉で「へだたること。へだたった度合。距離。差。」を指し、また「間に(ある程度大きな)空間や時間がある。」と書かれています。
話の意気込みで隔てを壁と合わせてお話しました。
そこには意味が異なる事の指摘を受けました。「壁」よりも「距離」にと捉えても良いと思います。
心から感謝を致します。
そこで、一旦ライブ放送を閉じようと思いましたが、まずはこの文章を読んで頂き話の意図をご理解頂けましたらと思います。

聖書の神と人とには隔てがある。人と人にも隔てがある



"「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。──主のことば──"

イザヤ書 55章8節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会


本日のお話は「人間が心と考えにもつ罪と、和解について」お話をします。

先ずはイザヤ書55章の時代背景とは、バビロン捕囚地での預言となります。


1. イザヤの時代には背景と切実な思いが存在しました。バビロン捕囚によって、未知の土地での日々が不安を抱えていたことでしょう。現在のガザ地区にも同様の感情が存在するかもしれません。私たちがその不便さや恐怖を理解できるかどうか疑問に思います。


2. しかし、神の視点から見た未来は異なります。神の思いを完全に理解することはできません。これは人間が全知全能ではない存在であるためです。私たちが「欠けている」と言うのは、私たちの限界を示しています。


3. 神と人との間には大きな隔たりがあります。エバが誘惑に屈し、果実を食べることで罪が始まったと聖書は語っていますが、誘惑に負ける前から、神の意図から逸れる心が見られます。


4. 理解できない罪(疑念)が存在します。理解がなければ関係は成立しませんが、全ての人が理解できるわけではありません。心、つまり霊的な側面は複雑で深いものです。そのため、一方的な憐れみが必要です。神の意図や与えられた恵みを理解できないと、罪が生じるのです。


5. これは人間関係にも当てはまります。理解があれば、お互いに傷つけずに協力できます。戦争などの紛争は理解不足や一方的な圧力から生じます。これは人間関係や家族関係でも見られます。


6. イエスの十字架は人が神の愛や目的を理解できるようになる象徴です。ここに和解があります。


7. 十字架は人と人の関係にも適応できる出来事でした。しかし、罪が存在するため、理解することは難しいこともあります。それでも、この障壁を超えることが愛です。信仰の成長も、この隔たりを克服することで意味が深まります。



“わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。"

ヨハネの福音書 13章34節  聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会



“イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、

知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』

これが、重要な第一の戒めです。

『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、

それと同じように重要です。"

マタイの福音書 22章37~39節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会