天からの光/ダマスコの驚くべき出来事

使徒の働き26章1節〜20節からのお話です。

実際には21章からお読み下さるといいかなぁと思っています。

編集された映像です。

下記はライブ配信映像


新改訳聖書
  1. アグリッパはパウロに向かって、「自分のことを話してよろしい」と言った。そこでパウロは、手を差し出して弁明し始めた。
  2. 「アグリッパ王よ。私がユダヤ人たちに訴えられているすべてのことについて、今日、王様の前で弁明できることを幸いに思います。
  3. 特に、王様はユダヤ人の慣習や問題に精通しておられます。ですから、どうか忍耐をもって、私の申し上げることをお聞きくださるよう、お願いいたします。
  4. さて、初めから同胞の間で、またエルサレムで過ごしてきた、私の若いころからの生き方は、すべてのユダヤ人が知っています。
  5. 彼らは以前から私を知っているので、証言しようと思えばできますが、私は、私たちの宗教の中で最も厳格な派にしたがって、パリサイ人として生活してきました。
  6. そして今、神が私たちの父祖たちに与えられた約束に望みを抱いているために、私はここに立って、さばかれているのです。
  7. 私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕えながら、その約束のものを得たいと望んでいます。王よ。私はこの望みを抱いているために、ユダヤ人から訴えられているのです。
  8. 神が死者をよみがえらせるということを、あなたがたは、なぜ信じがたいこととお考えになるのでしょうか。
  9. 実は私自身も、ナザレ人イエスの名に対して、徹底して反対すべきであると考えていました。
  10. そして、それをエルサレムで実行しました。祭司長たちから権限を受けた私は、多くの聖徒たちを牢に閉じ込め、彼らが殺されるときには賛成の票を投じました。
  11. そして、すべての会堂で、何度も彼らに罰を科し、御名を汚すことばを無理やり言わせ、彼らに対する激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々にまで彼らを迫害して行きました。
  12. このような次第で、私は祭司長たちから権限と委任を受けてダマスコへ向かいましたが、
  13. その途中のこと、王様、真昼に私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と私に同行していた者たちの周りを照らしました。
  14. 私たちはみな地に倒れましたが、そのとき私は、ヘブル語で自分に語りかける声を聞きました。『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い。』
  15. 私が『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、主はこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
  16. 起き上がって自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たことや、わたしがあなたに示そうとしていることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。
  17. わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのところに遣わす。
  18. それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。』
  19. こういうわけで、アグリッパ王よ、私は天からの幻に背かず、
  20. ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤ地方全体に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えてきました。
使徒の働き 26章1~20節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ご覧になっている皆さまへ。

 本日は使徒の働き26章1節~20節を解説致します。今回の聖書箇所の説明には使徒21章あたりから読んで頂く事でなおも話が理解しやすいかと思います。下記がその流れです。

1,諸外国のクリスチャンがパウロのエルサレム帰国を案じる

2,エルサレム帰国とエルサレムにおけるクリスチャン共同体で喜びの分かち合い

3,ユダヤで聞こえるパウロの疑惑、律法の蔑ろに関するユダヤ人宗教者とユダヤ人クリスチャンたち

4,エルサレム共同体につらなる長老たちの提案 宮における清めの儀式

5,宮詣でにおけるパウロと付き添う異邦人クリスチャンたち

6,最期の日に。エペソから来たユダヤ人たちからの暴動

7,宮に異邦人がいることが大暴動となる

8,宮の外に引きずり出し、パウロを殺そうとする。

9,ローマ兵が現れ、暴動を収めようとする。

10,自分はローマ市民である事を知らせて難を逃れる。

11,ローマ総督ペリクスが対応する。

12,ローマ総督の後任者フェストが到着し、パウロの事案を引き継ぐ。だがパウロの罪状が見当たらない事で悩みます。

13,新総督に挨拶するために、ユダヤ人の王アグリッパ王2世と娘ベルニケを連れ挨拶に来ます。

14,大祭司を含めますユダヤ人たちが訴える事に理解できない総督はアグリッパ王に相談する。それは罪状についてでした。カイザルに訴状を書くために罪状がないと書けないと言う事でした。

15,パウロのために謁見の場を設けます。その場でパウロは語ります。

16,その内容が26章となります。

上記は前置きです。

さて、パウロはイエスと出会った場面を何度か話をします。実際にはこの事が主軸となって出会う人々に説明、証をされたのでしょう。それがパウロの使命でもありました。

ただルカが書いた文章では3度です。とくに26章は先にない言葉が足されています。

当時、使われていた言語はアラム語ですが、イエスがパウロに声掛けした言葉はヘブル語です。さらに「とげの付いた棒を蹴るのは」と足しているのです。これはパウロが、イエスに声かけられた言葉に深い意味があること、それに何度も思い起こしては自分に言い聞かせて、奉仕と証を続けてきたと考えられます。

1,ヘブル語で語る意味とは、パウロにとっては大切なことです。宗教的なメッセージと言っていいでしょう。聖典とされる聖書はヘブル語で書かれていますが、ヘブル語でしか表現が伝わらないことなどがあります。生粋のユダヤ人でパリサイ人であったパウロにとっては大きな意味があったかと思います。またメシアが語られたという意味においてもパウロが悟るためには十分であったのかも知れません。ですからパウロはこの声を大切にして何度も語り、人々に紹介したのかも知れません。

2,とげの付いた棒を蹴るのは。この言葉は26章にしか出て来ません。どんなに否定しようが、真実は曲げられないとの事でパウロは愕然とした事でしょう。アポロは旧約聖書の学びを通してと洗礼者ヨハネの出来事だけでイエスをメシアとして受け入れていた事を考えると聖書に精通していたのはアポロと考えられ、アポロはその話をわかりやすく説明することで、多くのユダヤ人たちにも感化を与えていました。一方でパウロはユダヤ人クリスチャンたちを迫害。パリサイ派の人々に受け入れられるとわかれば、それが正しいこと思いさらに熱心に迫害に興じた事は聖書から見定める点においては欠けていたとも云わざる得ません。そこに気付かせた言葉とも考えられます。パウロは猛省します。その気付きを大切にしてこの出来事を何度も語る。そこに希望があるを使命とします。

3,私にはないが。ココでの私は僕の事です。パウロが言うイエスとの劇的な出会いはありません。はじめて教会に行ったときは衝撃を受けました。聖書のお話を聞いた時も驚きました。感動もしました。牧師のお話を聞いて「そうか」「そうだ」とも思いました。しかしイエスが直接的に語りかけてくださる事はありません。心に湧き上がるような思いは良くあります。ですがパウロのような劇的な場面ではありません。

だからこそ躓き、疑う。信仰生活に安定がないと、いまだから察します。パウロに向かって新総督フェストが大声で「パウロよ、おまえは頭がおかしっくなっている」と言いました。なにやらその場に入るような気がします。受け止められない、信じがたい話です。

4,パウロは大真面目です。パウロが体験した事はパウロが良く知る事です。だから語るのだと思います。そこがうらやましいとは思いませんか。信じる人々の中には代え難い証をもったクリスチャンがいます。その方にとってみればそれが全てです。まさに生活に表れる生き方です。パウロの場合はその生き方にあわせて周囲に信じがたい事までもがセットになって奇跡がおこります。

5,最期に、私たちはこの信仰を受け継ぐため、いかに受け止めるのでしょうか。イエスが天に上げられて後、弟子たちが数多くの証を伝えてきました。それが時代を超えて信仰の伝承がされてきました。またパウロも同じで、瞬間の出来事ではありましたが、イエスと言葉を交わして聖霊によって導かれて多くの証を伝承してきました。証をきいた人々も人生を通して聖書信仰を体験しイエスが生きておられる事の証を伝えました。それが「私たちもその事の証人です。」と伝えられて今日を迎えています。クリスチャンは今も尚存在し続けているのです。ただ信仰伝承に欠かさないで頂きたいのは、パウロが言う「ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤ地方全体に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えてきました。使徒の働き 26章20節 /すなわち、キリストが苦しみを受けること、また、死者の中から最初に復活し、この民にも異邦人にも光を宣べ伝えることになると話したのです。」使徒の働き 26章23節 /私が神に願っているのは、あなたばかりでなく今日私の話を聞いておられる方々が、この鎖は別として、みな私のようになってくださることです。使徒の働き 26章29節」信仰伝承です。