クリスチャンは委ねる事を学んでいます。

2023年9月10日(日)10時からのライブ案内です。

クリスチャンとはシリーズになっています。

ぜひご覧下さい。

↓ 下記は収録編集ビデオです

↓ 下記はライブ放送です。


タイトル:クリスチャンは委ねる事を学んでいます。
使徒の働き16章14節 ピリピでの出来事
"リディアという名の女の人が聞いていた。ティアティラ市の紫布の商人で、神を敬う人であった。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた。"
使徒の働き 16章14節
"そしてイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」
それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
こう言われた。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、
あなたがたは、これらのことの証人となります。"
ルカの福音書 24章44~48節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
お話の流れ
Ⅰ 主が心を開かれるとは
「主は彼女の心を開いて」と書かれています。これは、神様が誰にでもではなく、特定の彼女に心を開かれたことを示しています。また、彼女がユダヤ教の聖書に対する関心や知識を深めようと努力していた可能性も考えられます。
同様に、ルカによる福音書24章45節では、弟子たちの心が開かれ、イエスの言葉から新たな聖書の理解が得られたことが示されています。弟子たちは聖書の学習を怠らず、神に対する意識を高く保ち、イエスとの出会いから新たな理解を得たのです。
要するに、神様に心を開かれるためには、「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕える」ローマ12章11節 姿勢が欠かせません。これは、パウロが述べた姿勢と関連して考えられます。私自身、長い間信仰と向き合ってきた経験から、委ねる精神もまた非常に重要だと思います。
Ⅱ 心の世界   洞窟の寓話の世界
 私たちは知っています。人の心や考え方をコントロールすることはできません。ですから、悩み苦しむのです。行き過ぎる場合、相手を傷つけてしまうこともあります。それが戦争です。国を支配する者は支配と権力を行使し、威圧をかけることもありますが、相手が理解せず逆らうことから怒りが生まれ、自分の正義を主張し威圧や攻撃を仕掛けます。人々の心や考え方に理解できないことが、さまざまな事件などを引き起こす原因であることはお分かりのはずです。
 今日は、私たちの身近な出来事を解決する手段ではないと考えていますが、"クリスチャンはね" という問いかけシリーズとして、私なりの見解と聖書からのお話をお伝えしたいと思います。
お話の流れは以下の通りです:
  1. 人間の心を開く事ができるのはイエスです。私たちの思い通りになることはありません。ですが恐怖心と不安感を煽り洗脳する事によっては人をコントロールする事ができる。それはよく知られている事です。決してそのような事はあってはいけません。人間は何かと対峙する時、自分で理解し、判断して実行するべきです。ここで心を開くという説明は「大切な事に気付いた」という事です。パウロ(以前はサウロ)はイエスを信じる者に迫害をしようとエルサレムからダマスコまで向かっていました。その道中に輝かしい光に包まれイエスの声を聞き目が見えなくなります。彼は身動きが取れず、その声を聞いて深く考えさせられます。数日後アナニアがパウロの元に使わされ祈ると目が開けます。つまり見えるようになったのです。それは同時に聖書(神の国)に関する大切な事に気付かされたのでした。
  2. 隣人の心が開く事と、クリスチャンが気付いた事。
**a:** 隣人の心を開くことについて、我々が導くのではなく、分かりやすく伝えることが大切です。最終的には相手自身が理解することが必要です。自発的な気づきが重要です。聖書に記されている「心を開く」という言葉は、聖霊が「思い起こさせる」と説明しています。ヨハネの福音書14章26節には、「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したことを思い起こさせてくださいます。」と書かれています。もし周囲の人々と関わっている場合、まずはクリスチャンとしての信仰を示し、愛と思いやりの言葉をかけることが大切です。そして、聖霊が相手の心を開くように祈りましょう。
**b:** クリスチャンが気づくことは、自分自身について気づくことが含まれます。この場合、謙虚さが欠かせません。また、神に委ねる姿勢も必要です。クリスチャンは神のみ旨を追求する者です。したがって、聖書が指示するとおりに生きることを受け入れ、神に従おうとする心が必要です。ここで「委ねる」とは何を意味するのかを研究しましょう。
「委ねる」ことの意味
「委ねる」という言葉は、日本語の動詞であり、以下のような意味を持ちます。
1. 信頼や責任を他の人や組織に任せること:ある仕事や決定を他の人や団体にゆだね、その人や団体に任せることを指します。例えば、プロジェクトの管理を同僚に委ねる、子供の面倒を祖父母に委ねるなどが該当します。
2. 自分の意志や感情を他の人に頼ること:自分の考えや感情、行動などを他の人に依存することを指すことがあります。例えば、恋愛関係で自分の気持ちを相手に委ねる、意思決定を友人に委ねるなどがあります。
3. 自然や状況に身を任せること:特定の状況や自然の力に身をゆだね、それに従うことを指すこともあります。例えば、風や波に身を委ねてサーフィンを楽しむ、運命に身を委ねるなどがあります。
「委ねる」は、信頼や依存、自己決定の放棄など、文脈によって異なる意味で使用されることがあります。文脈によってどのような意味で使用されているかを注意深く1理解することが重要です。
  
身を任せるということは、何もしないというわけではありません。誤解しないように注意が必要です。具体的には、信じたことに対して信頼し、または既存の信念に基づいて新たな行動に取り組むことや、状況の進行を祈って見守ることを指します。
私たちは、イエスが生きていることを証言します。ルカによる福音書24章ではイエスの証人となるための心を開き、御言の経験を確かなものとして下さると紹介されています。
これがクリスチャンの生き方でしょうか。