聖書の神の愛をうながすクリスチャン。

前回のお話の続きです。ここでの鍵は信仰と倫理です。

私たちの時代でもちょっとしたことで、信仰的にどうなんだろうと思うことがあると思います。

倫理も含め、神様を愛するように、隣人をも愛することを学びます。

テキストは後ほどに。

先週のメッセージタイトルである「クリスチャンとして生きる」ことを考えましたが、聖書を読み、視点を変えるだけで新たな発見をするものです。
これが無理やりのこじ付けである場合は問題ですが、その後に続く文脈から導き出す事で広がりを見せるのです。本日はその続きからお話をさせて頂きます。
ただ、その前に前回を振り返りましょう。

クリスチャンはどのよう理念を持って生きているのでしょうか。これからお話をする事は全員に充はまるものでは無いという事を理解して下さい。
1、占いの霊に憑かれた女奴隷。この女奴隷は内に取り憑かれているものに言わされていると気づいたパウロ。そのパウロが霊を取り除く事をします。ですが女奴隷はパウロがしようとしていることの反対を言っている訳でなく大声で神様の使者として認める言葉を言い続けている状況でした。にも関わらず女奴隷を正常に戻しました。
つまり昔からユダヤ教では偶像崇拝・占い・霊媒師等は禁じられていました。よってその類から称賛を受けてもパウロにとっては受け入れ難い出来事でした。それでクリスチャンは偶像崇拝・占い・霊媒等に関心を持たないし、心を寄せる事はありません。クリスチャンとは心配事や不安、恐れに対し、常に向いてくださる神様(創造神)に祈るのです。

2、クリスチャンは如何なる状況でも信仰による証を形成する。 パウロとシラスは占い師でもあった女奴隷、商売の道具とされた女性が特殊な機能を果たさなくなった。その理由で地域を治めていた長官の命により投獄されます。鞭打ちの刑罰は酷いもので回数によっては死に値します。その後、手足を鎖に繋がれ自由が効かない状況となります。そのような中でも二人は祈りと賛美を捧げました。交互に祈ったのかもしれません。その時に大きな地震が起こりました。

3、囚人たちと看守。 牢獄に捕えられていた二人と別の囚人の扉と鎖が外れます。この現状を見た看守は逃げられたと判断し、責任(自害)を取ろうとします。パウロは大声で「自害してはいけない。」そして「私たちはみなここにいる」と叫びます。つまり囚人たちは逃げなかったのです。それも先日お話した大切なメッセージです。つまり囚人たちは、パウロとシラスの祈りを聞いていたという事です。私自身の経験ですが、イスラエルの国へと旅行に行った時の事です。死海の近くにエン・ゲディという小さな滝と川があります。そこには子ヤギもいて聖書の世界を魅了するところでした。思わず旅行に参加した日本人の皆様はゴスペルを歌います。その歌声を聴いていた外国人の方々は「美しい歌ですね」と言ってしばらくその場で聞き入って下さいました。まさにこの聖書の場面と同じです。人々にわかる言葉で祈ったこと、囚人が関心を寄せる賛美に心の変容を与えたのでしょう。看守は二人が逃げなかっただけでなく、同じように賛美と祈りに耳を傾けていたので29節のような展開になったと考えられるのです。クリスチャンの祈りと賛美は隣人に影響を与えるのです。

4、自発的に、積極的に。 看守の様子は明らかに違います。看守は二人を外に連れ出します。本来ならしてはいけない行為です。それを看守は規則を曲げて二人を連れ出しました。傷の手当てと食事も与えたのかと思います。そこから看守が語った一声は「救われるためには、何をしなければなりませんか」です。流れを思いますと、二人の祈りと賛美しかありません。あるいは捕えられた時の事情を知ってなのか噂です。ですがここでは祈りと賛美の内容によるものと考えるのが妥当です。私たちは普段から意識しつつ祈りも伝達として大切な事と知って起きましょう。くどい様だが、説教的な祈りはやめた方がいい。祈りは神様と私との時間であることを忘れずに。

5、主イエスを信じること。クリスチャンは主イエスを信じています。主イエス様は神様と私との関係が断絶していた絆を改善して下さった救世主です。断絶とは神様を知らないで別の神様に心を寄せる。神様を知ろうともしない。神様が大切にしていたものを破壊しているなどです。それは後ほどお話をします。つまりここでのお話は神様との関係が破壊されたのを関係回復させたのがイエス様でした。そのイエス様を信じなさいと説明します。そうすれば、あなたとあなたの家族も救われます。と宣言しました。主イエス様を信じる事は、自らが理解し率先して信じる事です。・・・のために信じるとか、恐れや不安があって信じるとかではなく、強いられてでもありません。主イエス様がして下さったこと、生きておられることを信じるのです。瞬時に信じる事もできますが、揺るがない信仰には時がかかります。それはまるで子育てをしているかの様です。信じた者の日常には生き方が表るものです。それを証と言います。その証があって身近なものにも伝わります。つまり言葉だけでなく、生き方によっても伝達ができるのです。ですから家族も救われるという文章に書かれているのです。

6、クリスチャンは憐れみと公正を大切にします。 長官は何も知らずに釈放を命じます。ですがパウロもシラスもローマ市民権をもっていました。そのことを告げます。なぜ今になってなのでしょうか? 彼らに弁明すらできる余地が与えられていなかった。それとユダヤ人である事から人種差別と異教徒であった事から問答無用的な姿勢があったのかも知れません。それと民衆からの人気取りか女奴隷を雇っていた主人から賄賂を受け取っていたかも知れません。そう言ったことを考えますとパウロは黙って去る事はできないと判断したのでしょう。パウロは身分を明かしました。結局は裁判もなく、なだめる行為をして静かに立ち去らせたのでした。クリスチャンは差別する事なく、平等にものを事をみる、考えるを重視している事を知ります。

上記をふまえて

今回のみ言葉です。コリント人への手紙第一8章全体です。

この箇所の内容は偶像にささげられた肉を食べて良いのかという話題です。この件に関しては既に答えが出ています。それは使徒の働き15章20節に書かれています。

ただ、偶像に供えて汚れたものと、淫らな行いと、絞め殺したものと、血とを避けるように、彼らに書き送るべきです。

使徒の働き 15章20節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

上記はエルサレム教会で、異邦人が救われるという出来事から、ユダヤ人がそれを割礼なしに認めるのかの有無を話し合われました。結果、割礼などの儀式等を求めないという判断となり、そのかわり上記のことは守るようにとの内容を世界に広がる宣教に足して守るようにとバルナバとパウロに委ねます。その後、バルナバとパウロは意見分かれして別々に旅行を続ける中、パウロに起きた出来事です。

【聖書】

  1. 次に、偶像に献げた肉についてですが、「私たちはみな知識を持っている」ということは分かっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。
  2. 自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。
  3. しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。
  4. さて、偶像に献げた肉を食べることについてですが、「世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しない」ことを私たちは知っています。
  5. というのは、多くの神々や多くの主があるとされているように、たとえ、神々と呼ばれるものが天にも地にもあったとしても、
  6. 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、この神からすべてのものは発し、この神に私たちは至るからです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、この主によってすべてのものは存在し、この主によって私たちも存在するからです。
  7. しかし、すべての人にこの知識があるわけではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんできたため、偶像に献げられた肉として食べて、その弱い良心が汚されてしまいます。
  8. しかし、私たちを神の御前に立たせるのは食物ではありません。食べなくても損にならないし、食べても得になりません。
  9. ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい。
  10. 知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、その人はそれに後押しされて、その良心は弱いのに、偶像の神に献げた肉を食べるようにならないでしょうか。
  11. つまり、その弱い人は、あなたの知識によって滅びることになります。この兄弟のためにも、キリストは死んでくださったのです。
  12. あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。
  13. ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。"

コリント人への手紙 第一 8章1~13節  聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

この文章は、コリント人への手紙第一の8章1~13節に記された内容です。文章は「偶像に献げた肉」に関する議論を中心に展開されています。著者は、知識と愛、神への信仰、そして兄弟愛について説明しています。文章は以下の要点を含んでいます。

 

  1. 知識と愛の関係:知識(法的主義と反法的主義)は高ぶりをもたらし、愛は人を成長させる重要な要素であることが強調されています。例)聖書の中では律法学者とイエスの議論で知ることができます。 1節
  2. 神への愛と知識の限界:人が自分を知識豊かだと思う場合でも、知るべきことはまだ多く残っており、神への愛が重要であると述べられています。 2節
  3. 神の知識と愛:神を愛する者は神に知られているとされ、神への愛と関係性が強調されています。 3節
  4. 偶像の神々の実在性:世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しないことが指摘されています。 4節
  5. 神の存在と役割:唯一の神と主である父なる神と主イエス・キリストの存在と役割が説明されています。 5節~6節
  6. 弱い良心と罪:偶像に献げた肉を食べることが、弱い良心を傷つけ、罪を生む可能性があることが述べられています。 7節
  7. 兄弟への配慮:食物が他の兄弟をつまずかせないように配慮する必要があると強調されています。  8節
  8. キリストの犠牲と兄弟愛:キリストが兄弟たちのために死んだことを思い出し、兄弟への罪についての意識が説かれています。  9節~12節
  9. 食物と兄弟愛:食物が他の兄弟をつまずかせる可能性がある場合、食べるかどうかを検討し、兄弟愛を優先する決意が示されています。 13節 

 

文章は、信仰と倫理に関する深い考えと指針を提供しています。

 

 

この文章の文脈を考えると、肉を食べることについては、文中で示されている側面に注意を払う必要があります。ルカは、パウロの言葉を文章にしたとき肉を食べること自体には問題がないかもしれないが、それが他の兄弟姉妹の信仰や良心に影響を与える可能性があることに注意を喚起しています。特に、弱い良心を持つ人々がそのような行動を見て、自分も同様に行動する可能性があるとして、その配慮を求めています。

 

結論的には、肉を食べることそのものには制限がないとされていますが、他の人々の信仰や良心を尊重し、それが他人に影響を与える可能性がある場合は、兄弟愛を尊重して慎重な行動をとるべきだとされています。つまり、自分の行動が他人に対する優しさや配慮に反しない範囲内で、肉を食べるかどうかの判断を行うよう促されているのです。

 

 

 

 

キリスト教倫理

 

「Christian Ethics」は、イエス・キリストの福音によって罪から解放された人々に与えられている道徳的義務の総称であり、聖書の記述から導き出された倫理的規範に基づいて行動の善悪を定義するものです。キリスト教倫理は、聖書を通じて示された啓示や神の教えに基づいて、人間の道徳的義務を確立し、行動の善悪を指し示すものであり、愛が中心的な規範とされます。

 

この倫理は、個人の信仰や他人との関係、社会的状況などに対して適用されるものであり、徳や道徳的性質なども議論されます。愛の戒め、神への愛、隣人愛などがキリスト教倫理の中で重要な位置を占めており、これらを基にして行動を決定します。

 

キリスト教倫理は、信仰や倫理的規範としての役割を果たすだけでなく、キリスト教の教理や救いの理解とも密接に結びついています。徳や道徳的規範は、キリスト教の神の性質や救いのわざに根差して理解される要素であり、人々の行動指針として重要な役割を果たしています