イエス・キリストの名によって

あしたの聖書箇所は「使徒の働き3章1節から16節」までのお話を致します。

タイトルは上記の表記通りです。

2023年6月18日15時以降公開となります。

イエス・キリストの名によって


ペテロとヨハネが宮に上る
ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
すると、生まれつき足の不自由な人が運ばれて来た。この人は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門に置いてもらっていた。
彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。
すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
そして彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。
人々はみな、彼が歩きながら神を賛美しているのを見た。
そしてそれが、宮の美しの門のところで施しを求めて座っていた人だと分かると、彼の身に起こったことに、ものも言えないほど驚いた。
この人がペテロとヨハネにつきまとっているうちに、非常に驚いた人々がみな、「ソロモンの回廊」と呼ばれる場所にいた彼らのところに、一斉に駆け寄って来た。
ペテロが説教する
これを見たペテロは、人々に向かって言った。「イスラエルの皆さん、どうしてこのことに驚いているのですか。どうして、私たちが自分の力や敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。
アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち私たちの父祖たちの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたはこの方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。
あなたがたは、この聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、
いのちの君を殺したのです。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。
このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。
使徒の働き 3章1~16節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会


バイブルカフェについて
  • 皆様、バイブルカフェにご参加いただきありがとうございます。
  • 今回は前回からの続きになります。
  • 聖霊降臨日とされる日に、聖霊に満たされたペテロはイエスについて話します。
  • 「満たされた」とは、何やら見えない存在、それは力強いエネルギーと言っていいのでしょうか。それに全身が包まれた。その力によって関連される聖書が思い起こされ理解した。心も肉体も高揚感によって恐れがなくなり大胆に話をした。と言うところでしょうか。
  • ここで言いたいことは決して操り人形ではないと言うことです。神様に祈り求めた結果、自身が持っている賜物を聖霊によって発揮されたと考えられるのです。

ペテロの説教により、3000人以上がイエスを信じる
ルカによれば、イエスを受け入れた人々が3000人以上いたようです。この数字は確かではありませんが、ペテロの話を聞いて繋がり信じたことの記録が書かれています。そして、信じた人々は洗礼を受けたでしょう。その数は非常に多く、風呂桶ではなくプールのような、例えば神殿の近くにある沐浴(清める)する場所を使い洗礼を授けられたと考えられます。これが使徒2章の出来事です。

ペテロとヨハネが地位と名誉に固執しないことを示す出来事
今回のお話は、ペテロとヨハネが神殿に行ったことに関するものです。以前であれば身を隠し、公の場所に立つことを避けていたと考えられます。ですがペテロは変わりました。
美しの門にたどり着いた時、脚が不自由で、生活のために毎日施しを求める男性がいました。この男性は地元では有名で、その門を通って神殿参りする人にはよく知られた人です。いつものように、門を通る人に顔をしっかりと向け、手をあげて施しを求めます。
そこにペテロとヨハネは立ち止まり、男性を見つめるものですから、当然のようにお金を頂けると思ったのでしょう。しかし、男性に対して言った言葉は、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」というものでした。そして、ペテロとヨハネは男性の両手を掴んで、立ち上がらせました。

男性がどのように感じたか
この時の男性が何を感じたかは定かではありませんが、いくつかの解釈があります。
  1. 何が起こったのか理解できなかった。
  2. イエスの名前に期待した。
  3. 二人の話を聞いて、二人の支えによって立てると思った。
  4. その他の解釈。
私は(1)だと考えます。
ただそれだと次の聖句でペテロが語った言葉に繋がりません。
このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。
この男性は瞬時に信じたというのです。
驚きです。
そうすると、先日お話した「だれでも救われる」事に大いに期待できます。
再度、想像と描写を加えて(4)を考えますと(想像と描写は文章に沿って考えるものです。あまりにも逸脱したものであればズレる事になります。そこさえ守れば自由な想像と描写を加えても良いと考えます。)、ペテロとヨハネが両腕を支えながら、「イエスが癒してくださる。さぁ両足に力を入れて立ってごらん」と立てるようにまなざしと愛のある言葉を付け加えたとも考えられますね。男性はその言葉に期待を寄せて立った。つまりペテロとヨハネが人の持つ全ての感覚と感性を表現し、それを真剣に捉え二人を見た男性はイエスに対する信頼が働き、もちろん聖霊も働き立つ事に至ったとは言えないでしょうか。男性は先の御言の通りイエスを信じたのです。

1、ナザレのイエス・キリストの名によって
「父祖の神に生きるユダヤ人」として、新しい契約の始まりには「イエスの名」を語ることが必要であり、過去の弟子の状況では「イエスの名」も消えていったであろうことは確かです。救いを失わないためには、古い神殿から新しい「イエスの名」の神殿への転換をもたらす、インパクトのある出来事が必要です。弟子たちが変わり、イエスが地上におられた時のように癒しの奇跡が起こる事でイエスの名は広がります。

2、自分の力や敬虔さによってではない。
どうして、私たちが自分の力や敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。
上記の文章から読み取れることは「イエスというお方に力がある」という事です。以前のペテロであれば、この力を欲しがり、他の人に見せつけたかったはずです。ですが、今のペテロにはそのような思いはありません。事実、美しの門に座っていた男性への癒しも「イエスによって」が明確に語られているのです。私たちもイエスに信頼を寄せる、またはイエスに丸投げする信頼を持つのも良いかと思います。

3、イエスが何をなさったのかを伝えるペテロたち
イエスの名を呼べばよいというわけではない
重要なのは、イエスが何を成し遂げたかです。ペテロは常にそのことを語っています。
  • イエスがメシアであったこと
  • いのちの君を殺したこと
  • 父神がイエスをよみがえらせたこと
これらが重要な証拠です。私たちはこれらの出来事に関与しているため、悔い改めを勧めるのです。
私たちは、イエスが何を成し遂げられたのかを真剣に考える時間を持つようお勧めします。