主の名を呼び求める者はだれでも救われる

場所、日本基督教団石巻栄光教会
時間、10時30分〜11時15分
題、主の名を呼び求める者はだれでも救われる。
聖書箇所、使徒言行録2章21節

子どもたちの礼拝

お題:呼ぶことができることは幸いです。

聖書箇所:使徒言行録2章21節

 

不安や悲しみ、助けが必要な時に心から頼れる人がいることは、本当に幸せです。同様に、喜びを共有できる人がいる事も幸せです。こうした感情に向き合ってくれる存在がいることで、私たちは力を得ることができます。

 

私は一人っ子で、父親がいない状況で育ちました。さらに、今よりも困難な時代だったため、母親も朝早くから夜遅くまで一人で頑張っていました。

 

心を共有できる人がいなかったのですが、そんな時にイエスに出会えたことは本当に幸運でした。イエスさまと呼ぶことができると、不思議な感覚があります。イエスさまが私の願いを聞いてくださったのかなと思える解決策が与えられてきました。それが繰り返されました。

 

悲しくて辛かったけれど、一人じゃなかったと感じています。神さまとしても良いですが、イエスさまと名前を呼ぶことが私にとって大きな励みとなりました。そして、数十年経っても変わらずに続いていますね。

 

世の中には「厳しい」現実がたくさん存在しますが、聖書の物語にも時には怖い場面があります。

しかし、イエスさまは「愛」そのものであり、私たちはその愛に目を向けることができます。

皆さんは教会に来ているので、ぜひともイエスさまという名前を続けて呼びましょう。

イエスさまは確かに私たちを救ってくださいます。

 

お祈りいたします。

 

おとなの礼拝

 

しかし、主の名を呼び求める者はだれでも救われる。使徒2章21節

 

使徒2章17節~21節

次の聖句はヨエル書2章27節~3章5節に書かれているものです。

それをペテロが引用し、今の場面と重なると説明をします。

 

『神は言われる。終わりの日に 

私は、すべての肉なる者にわが霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し若者は幻を見、老人は夢を見る。

その日、 男女の奴隷にもわが霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。

上では、天に不思議な業を下では、地にしるしを示す。血と火と立ち上る煙が、それだ。

主の大いなる輝かしい日が来る前に太陽は闇に月は血に変わる。

しかし、主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

 

・主の名を呼ぶ

ローマ書10章13節には、

主の名を呼び求める者はだれでも救われると書いています。

 

同じ意味なのですが、

私はローマ書に書かれている聖句の方が好きですね。

 

明確なメッセージです。

つまり主の名ですから、いえすさまなんですね。

おとうさんでもいいでしょう。

名前を呼ぶ時にはイメージ付けされているわけですよね。

例えば、僕がお父さんと呼べば聖書の神さまがイメージされているわけですから、

それで良いわけです。

子ども礼拝でも話した通りです。

 

・わが霊を注ぐ(17節)

 ペテロは旧約聖書に書かれていた聖句を引用しイエスが天に上げられた事で成就したと告げます。以前のペテロの知性や人格からは考えられない発言です。

むろん、弟子たちは聖書のことや、宗教性のこと、政治的なことに無関心であったわけではないでしょう。いやそれどころか関心があったので、イエスの呼び掛けに応答したと思います。

ですが、イエスが処刑されて間もないことから、わずか2,3か月足らずで変わった様子は、まさに使徒1章8節の預言が成就した。その始まりと考えます。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」」 使徒言行録 1:8 新共同訳

 

・霊が注がれた事によって

ペテロをはじめとする弟子たちの多くはユダヤ教の教師ではありません。イエスから任命を受け、それとイエスを信じた人々です。その彼らが祈る中で霊が注がれたのです。しかもそこにいた全員がです。男性も女性もでしょうね。

「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」

使徒言行録 1:14 新共同訳

その中で、ペテロが語る者として語ったと考えます。既に誰が偉いかなどの覇権的な要素はありません。霊性となる心も、霊性によって導かれたと考えます。

 

・だれでも救われるために。

私たちは、そのような期待を持ちたい。信じていない人にとって残念なことだが、主の名を呼ぶ必要があります。これは紛れもない聖書のことばです。私たちが変えることはできません。

だから、信じてと強く語るのでしょう。それは当然です。

ですが、伝えるためには時間をかける必要があります。

その時間をかける時にこそ聖霊に向けて祈る時間を費やせばいいのです。

結局は、私たちではなく、心に向けて聖霊が救いへと導くよう働いて下さっているのです。

「じゃ。何もしなくてもいいのですか」という愚かな質問はしないで下さい。

大切な人にむけて何もしないはずがありません。只生涯を通して良き友、良き親、良き子、良い隣人でいようと思うでしょう。そんな風に神経を費やしているのなら、必ず導きがあると信じて日常を過ごされるのが良いでしょう。そのための信仰です。

私たちがもつ信仰は生きた証のある日常です。

 

「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。 しかし、弁護者(助言者・仲介者・相談役・支持者・保護者)、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」

ヨハネによる福音書 14:25-26 新共同訳

 

「「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」

ヨハネによる福音書 14:15-17 新共同訳

 

「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」

ヨハネによる福音書 16:7 新共同訳

 

上記の聖句を心に刻み、信仰をもって過ごしましょう。

 

「では、何と言われているのだろうか。 「御言葉はあなたの近くにあり、 あなたの口、あなたの心にある。」 これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。 聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。 ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。」

ローマの信徒への手紙 10:8-13 新共同訳