今も生きておられるイエス

「エマオの途上」で有名な聖書箇所よりお話をします。

2023年5月14日(日)10時よりご覧頂けます。

聖書箇所は、ルカによる福音書24章13節〜48節


今も生きておられるイエス様

 

新改訳聖書2017 箇所:ルカによる福音書24章13節~48節

 

1,ちょうどこの日

ルカ24:13 ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。(約11キロメートル/1スタディオンは約185メートル)

14 彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。

 

「ちょうどこの日」とは、イエス・キリストが復活された日曜日を指します。この日は、キリスト教暦において最も重要な日の一つであり、復活を記念する始まりです。イエスが死から蘇り、新しい命を与えたこの日は、キリスト教徒にとって極めて意義深いものです。さらに、この日を記念するために、日曜日がキリスト教において安息日とされ、礼拝をささげる日と制定されました。

 

つまり、今日のお話は、イエス様が復活された日曜日の出来事についてです。

 

2,心の目がさえぎられている状態

ルカ24:15 話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。

16 しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。

 

「さえぎられている」という状態とは、他人や外部の要因によって妨げられているのではなく、自分自身の心の状態によって気づかない状態を指します。この場合、過去の出来事が極めて重大であったことが要因となっています。具体的には、イエス様の十字架の出来事やご遺体が行方不明となったという奇妙な事件が挙げられます。このような宗教的や政治的な背景を含む複雑な状況により、困惑する要素が数多く存在していたでしょう。そのため、イエス様が声をかけられたとしても、その状況下では認識することができなかった可能性があります。

 

私たちがここで学ぶべき教訓は、出来事に縛られて真実が隠される可能性があることです。私たちは過去や現在の出来事に囚われず、より広い視野で物事を捉える必要があることを心に留めておきましょう。

この箇所から鑑みて、イエス様が以前から言われていた事を理解していれば、メシアとして成されることから目は開けていた事でしょう。それがこの後の御言葉にて分かります。

 

3,幻滅した思い

17 イエスは彼らに言われた。「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」すると、二人は暗い顔をして立ち止まった。

18 そして、その一人、クレオパという人がイエスに答えた。「エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」

 クレパとは、”イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。" ヨハネの福音書 19章25節

19 イエスが「どんなことですか」と言われると、二人は答えた。「ナザレ人イエス様のことです。この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。

20 それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいました。

21 私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。実際、そればかりではありません。そのことがあってから三日目になりますが、

 

ここでの場面は、「不安と幻滅した思い」に覆われています。このような大きなニュースを知らなかったことに驚き、説明をします。

 

「エマオの途上」という絵画では、よく男性が2人とイエス様を一緒に描かれています。しかし、実際にはエルサレムから去ったこの2人は夫婦であった可能性もあります。それは、ヨハネ伝19章25節から考えることができます。特に、クロパの妻であるマリアは、イエス様の処刑場にいたことが記されています。したがって、2人の話は非常に現実味を帯びたものだったと思われます。例えば、イエス様の母であるマリアについても言及されているかもしれません。また、クロパ自身も、ローマの植民地支配下での解放に対してどれだけ期待を抱いていたか考えることができます。彼らはそうした話題に熱心に語り合ったのかもしれません。

 

弟子たちは、いままでの出来事を話します。

・二人は暗い顔をして  (2)番につながる心情、不信心があらわにされている。

・弟子たちが思うイエス像「イスラエルを解放する方」

 

4,(7番)につながる聖書の真義

22 仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、

23 イエス様のからだが見当たらず、戻って来ました。そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた、と言うのです。

24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

25 そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。

26 キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」

27 それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。

 

・言ったことすべてを信じられない者たち。 (2)・(3)と同じに過去に囚われる不信仰な姿。 死んで横たわっているイメージが強いため、メシアとして何をされたのか理解する能力が低い状況であった。

・だが、イエス様はご自分について聖書全体に書いてあると何度も語ってこられたことをここでも話されたとルカは書き残します。

 

5,目が開かれる

28 彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。

29 彼らが、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。

30 そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。

31 すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

32 二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」

33 二人はただちに立ち上がり、エルサレムに戻った。

 

きっと、エマオへ向かう道中ではイエスがメシア(救い主)であることや、死を通して救われるという聖書の教えが説明されていたのでしょう。その中には希望に満ちたメッセージが含まれていたはずです。そして、その後、最後の晩餐と同じ光景が再現され、クロパは思い起こします。彼はその方が実際にイエス様であることに気づいたのです。

 

・彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って これは夕食の場面で、最期の晩餐時とよくにた光景です。同時に聖餐式ではないがつながりを感じます。

・目が開かれ、イエスだと分かった(受け取る)

・聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていた。 (2)・(3)とは真逆の表情、表現となっている。

 

6,見ても疑う弟子たち

34 「本当に主はよみがえって、シモンに姿を現された」と話していた。

35 そこで二人も、道中で起こったことや、パンを裂かれたときにイエスだと分かった次第を話した。

36 これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。

37 彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。

38 そこで、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。

39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」

40 こう言って、イエスは彼らに手と足を見せられた。

41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていたので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。

42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、

43 イエスはそれを取って、彼らの前で召し上がった。

 

場面は変わります。復活のからだ、栄光のからだを目の当たりにします。しかしその前に、その場にいた弟子たちはまだ信じようとしませんでした。その時、イエス様は「平安があなたがたにあるように」と言われ、復活したからだを彼らに示しました。

 

 

 

 

7,聖書に書いてある

44 そしてイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」

45 それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、

46 こう言われた。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、

47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、

48 あなたがたは、これらのことの証人となります。

 

私たちが見る旧約聖書全体(ユダヤ教では聖書)は、イエスについて書かれていると言われています。聖書に書かれた言葉は必ず成就するということです。さらに、その言葉を理解するために、イエスは彼らの心を開かせました。言い換えると、ルカの言葉によれば、イエスは彼らを「悟らせた」と言われています。私たちもただ単に聖書を読むだけでなく、心を開いて読み聞かせていただくことを敬虔に願いましょう。

 

そして、「その名によって」ということを心に留めながら、自分自身の間違いを認識し、悲しむ人々に対してイエスの愛を言葉に込めて伝え、相手の悔い改めを歓迎しましょう。私たちはその使命のための証人であると、ルカは教えてくれています。

 

以上が本日のみことばに訊くでした。