君もそこにいたのか 2

2023年4月30日(日)のための収録放送を貼り付けました。

公開は30日0時よりご覧頂けます。

また、テキストに関しても後で下記に掲載します。

B, ラザロの復活を切っ掛けに
イエスさまを襲おうとする陰謀
  1. サドカイ派の祭司とパリサイ派の律法学者は、イエスさまと比較されることを恐れ、最高裁判所を召集しました。しかしながら、イエスさまが行った多数の奇跡やしるしは、メシアの証とされるものであるため、彼らにはこれらを否定する口実がありませんでした。
  2. つまり、彼らはイエスさまがますます信仰を集めることを恐れており、最終的にはすべての人がイエスさまを信じるようになってしまうことを危惧していたのです。
  3. 彼らはまた、イエスさまがますます信仰を集めることで、ローマ人が介入して現在の体制や環境が崩壊することを危惧し、それによって彼らの既得権益も失われてしまうことを危惧していました。
  4. 当時の議長である大祭司は、この年もカヤパであって、紀元18年から36年までの18年間にわたってその地位にあったとされています。これは異例の長さでしたが、ローマとしても利用しやすい人物を選んだと思われています。ですからカヤパは、この問題の解決策として、イエスさまを殺すことを提案しました。以下がその内容です。
  5. しかし、彼らのうちの一人で、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。」ヨハネの福音書 11章49~50節 と発言した。
  6. ヨハネは、大祭司が、自分が意図していない預言を行ったことを示すために、イエスさまが『年に一度、民に代わってとりなしをし、神さまから受けた言葉を民に語る』習わし<ならわし>を引用しています。カヤパの考えは、神の意図とは全く異なっていたため、的外れなものと主張するのです。
  7. 次の文章はヨハネの見解によるものです。「このことは、彼が自分から言ったのではなかった。彼はその年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。」ヨハネの福音書 11章51~52節 解釈です。
  8. ヨハネはイエスの死後、紀元70年頃に起こったユダヤ独立戦争で、ローマの軍隊はエルサレムを征服し、神殿は完全に破壊された場面をみていた可能性はあります。以降神殿における生け贄祭儀はなくなり当時の祭司の務めもこの時から終止符となります。ただし律法を守る儀式等は受け継がれます。その時より多くのユダヤ人やキリスト者が散らされますますが、信仰者のつながりはイエスさまにあって一つとされ世界に広がっていきます。

C, 一人の人が民に代わって死んで」というメッセージ。
 カヤパから出た言葉ですが、ヨハネが解釈した通りの預言です。もう少し詳しく言うと、一人ひとりに変わって死なれました。これが十字架の意味です。それではなぜ「代わって」なのでしょうか。
  1. 「代わって」という意味を理解することは決して簡単ではありません。ユダヤ人の歴史と文化があってこそ、その意味を理解することができます。ユダヤ教においては生け贄をささげる規定があり、その規定が律法であり、律法を解き明かす先生がいて、その教えに基づいて生け贄をささげていました。このような神殿を中心とするユダヤ教は政治的指導社会を構築していました。当時のキリスト者の多くはユダヤ人であり、彼らにとって、私たちには罪があるとの教えはユダヤ教からの伝承であり、理解できることです。さらに、聖書にはミカ書など、まことの心からのささげもの、傷や汚れのないささげものとして、十字架の意味が説明されています。
  2. 人や動物では解決できない古くからの罪、「原罪」は、真心からの尊い生け贄がイエス・キリストであるとすることで、当時のキリスト者は理解することができました。ペテロが書いた御言葉を読むと、そのような内容が記されています。「キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。」 ペテロの手紙 第一 3章18節
  3. キリスト教における「原罪」とは、アダムとイブが禁断の果物を食べたことで人間が背負う罪のことを指します。この出来事が起きる以前、人間は神との関係が完全であり、死や苦しみといったものが存在しませんでした。しかし、アダムとイブが神の命令に背いて果物を食べたことで、神との関係が断たれ、人間は死や苦しみを体験するようになりました。このことから、アダムとイブの行為が原因で人間が背負う罪のことを「原罪」と呼びます。
  4. パウロは次のように説明しています。「こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に──実に、律法が与えられる以前にも、罪は世にあったのですが、律法がなければ罪は罪として認められないのです。けれども死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々さえも、支配しました。アダムは来たるべき方のひな型です。しかし、恵みの賜物は違反の場合と違います。もし一人の違反によって多くの人が死んだのなら、神の恵みと、一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物は、なおいっそう、多くの人に満ちあふれるのです。また賜物は、一人の人が罪を犯した結果とは違います。さばきの場合は、一つの違反から不義に定められましたが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。もし一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら、なおさらのこと、恵みと義の賜物をあふれるばかり受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するようになるのです。こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。すなわち、ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされるのです。律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした。しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。ローマ人への手紙 5章12~21節  聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
  5. ユダヤ教もキリスト教も、神の律法に違反することは罪であり、罪によって死ぬことになります。しかし、神は私たちを愛しており、私たちが罪から救われるために、イエス・キリストを送ってくださりました。イエス・キリストは私たちの罪を代わりに背負い、十字架で死んでくださったことによって、私たちは救われることができます。また、死後には神の裁きが待ち受けていますが、キリスト教では、そのときキリストが私たちを弁護してくださると信じられています。私たちは、自分たちが犯した罪を認め、悔い改めることで、キリストの贖いによって罪から解放されることができます。つまり、私たち自身の力では罪を帳消しにすることはできず、イエス・キリストが代わりに裁きを受け、私たちを救ってくださったことによって、罪から解決されるのです。
  6. 律法があることで、私たちは何が正しく、何が間違っているかを知ることができます。律法がない場合、何が罪であるかを定義することはできません。
  7. この教えは、キリスト教徒以外の人たちには理解しづらいかもしれません。また、他人に迷惑をかけることがないと思っている人たちにとっては、この教えに興味がないかもしれません。律法が存在しなければ、何が罪であるかを判断することはできません。さらに、キリスト教者でも、聖書の教える基準を十分に理解していない場合、罪を正しく理解することはできません。
  8. 「代わって十字架にかかってくださった」ことの目的を達成するためには、私たち自身がその意味を理解し、その出来事に立ち会うことが必要です。私たちは、キリストが私たちのために十字架で完成させた目的を理解し、その出来事に立ち会うこと「君もそこにいたのか」で、その恩寵・恩恵を受け取ることができます。
  9. 補足として、キリスト教国において、政治家や宗教家が弱者を見過ごし、戦争を正当化するような判断をする場合、キリストの教えとは真逆の行動をとっていることになります。これは、「君はそこにいない」ということを意味しています。つまり、彼らはキリストの教えに背いており、彼らがとる行動はキリストの教えとは矛盾しているということです。
  10. 上記のまとめですが、「死なれた」という表現は、イエス・キリストが自分たちの罪のために死んでくださったという教義を表す表現です。この教えは、キリスト教徒が信じる中心的な教義の一つであり、人間が罪から解放されるためには、イエス・キリストの死による贖罪が必要であるとされています。ただし、この教えはキリスト教徒にとって重要なものであり、他の人々にとっては関心が薄い場合があることも指摘されています。また、律法がなければ罪と断定できないことが示されており、この点についても言及されています。
  11. イエスさまの時代から現代まで、創造主が与えた律法は、人々の解釈によって正しく受け止められなかったと言われています。また、心の良心についても、社会や文明の変化によって定まったものではありません。今も、戦争や争いが絶えず、多くの人々が犠牲になっている一方で、正義を掲げる人たち自身も、家族や近隣と平和的な関係を築くことができていない状況があります。私たちは、日常生活で悔い改めが重要であることを知りながら、それを陰険な振る舞いとして避ける傾向があります。しかし、悔い改めは、私たちが正しい方向に向かうための重要なメッセージであり、避けてはならないものです。