【御言に訊く】イエスが成されたこと

 

下記は今日のテキストです。

 

 今年もイエス様が復活されたイースターを迎えることができました。

今年で1990回目を迎えるわけです。

この事を伝えるために生かされている喜びと尊い使命が与えられていることに感謝を覚えます。

本日は復活日ですから、イエス様が十字架にかかる前から復活されたところまでのお話を簡潔にまとめます。

受難週の始まりは「ホサナ」と叫んでイエス様を迎えるところからです。

一方宗教家という肩書きを持つ人々はイエスを捕らえて殺そうと思案し、そのチャンスを見計います。しかし決して会衆の前で見せる事はできません。

 

題:イエスさまが成された事

 

A.  ラザロの復活

B.  三兄弟の家、ベタニアにて香油の油(約300万円相当)が注がれる。ベタニアのマリア

C.  プライドを傷つけられたユダは一ヶ月分の賃金(30デナリ)に相当する金額でイエスを見限る。<デナリウス硬貨>

D.  洗足の時、最後の晩餐における数々の出来事。

E.  ゲッセマネの園にて逮捕されるイエス。

F.  たらい回しとなるイエス。カヤパ邸、ピラト官邸、ヘロデ王宮

G.  作られた裁判、宗教家の陰謀

H.  残虐な刑の実行

I.  十字架上と母マリア、ヤコブの母マリア、イエスの弟子マグダラのマリア、ヨハネ、その他にサロメもいた。

J.  十字架の七言

1.   「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、わかっていないのです」(ルカによる福音書 2334節)

2.   「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカによる福音書 2343節)

3.   「母よ、ごらんなさい、あなたの子です」(ヨハネによる福音書 1926節)

4.   「エリ、エリ、レマ、サバクダニ」(マタイによる福音書2746節)

5.   「わたしは渇く」ディプソォー(ヨハネによる福音書 1928節)

6.   「神よ、わたしの霊をあなたの手に託します」(ルカによる福音書 2346節)

7.   「完了した」(ヨハネによる福音書 1930節)

K.  イエスの弟子であったアリマタヤのヨセフが用意していた墓に入る マタイ2757

L.  ヨセフ・アリマタヤが「議員」と表現されているのは、彼がエルサレムの「議会」や「評議会」の一員であったことを示す

M.  土曜日は安息日であったため、安息日を遵守し静かに過ごした。

N.  安息日が明けた日曜日の朝、イエスの遺体に油や香料を塗るために墓に向かいました。当時の習慣に従い、死者の遺体に油や香料を塗ることが行われていたため、彼女たちも、イエスの遺体にそれらの物品を使用するために、墓に向かったのでした。この時の女性に関しては異なります。マタイ281とルカ2410複数であるのにヨハネ201単数です。

O.  弟子たちに出会う

 

まずはここまでです。

 

本日の「御言に訊く」とは。

ピリピ48節からです。

8 最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。

9 あなたがたが私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。

 

まずは8節、日常的に良い事に触れることがあれば、それを「心に留めなさい」という教えです。9節になりますと、聖書の教えと関連付け、イエス様が語られた数々の出来事や聖書の教えを思い浮かべることを勧めています。

 

その事も踏まえて受難週に起きた事を考えましょう。

 

「マリア、イエスの話を訊く」 ルカ1038節~42

 

以前にマルタとマリアについてお話しました。覚えているでしょうか。当ホームページの過去のブログを参考にしてください。

マリアはイエス様のお話を聞く姿勢を貫きました。このときの漢字をあえて「訊く」にしました。そこには理由があります。この漢字で書かれた場合の意味とは、問いかける意味を合わせています。つまり、聞きっぱなしではないということです。理解を深めるために聞く姿勢を表しています。マリアはイエス様のことを知ろうと熱心でした。また、イエス様も来るべき受難と素晴らしい出来事を知ってほしいと願っていました。そこが噛み合った瞬間です。ですから、「マリアは良き方を選んだ」と書かれたのです。また、そのタイミングも分かっていました。それが、ヨハネ121節~11節です。先にも説明をしましたが、上質の香油をイエス様に捧げました。人類のために、これから大事を成し遂げることを知っていました。ですから、大切な高価な香油をイエス様に捧げたのです。一方、それを見たユダは、長く共にいながら全く理解していませんでした。それどころか、僅か一ヶ月の賃金に相当する金額でイエス様をこの後裏切ります。彼にとって金額ではなく、叱責されたことに腹が立った。メンツが崩されたことへの怒りでした。ユダはイエス様がどこかで弱さを吐き出すだろうと高を括っていましたが、そうはならなかった。いやそれどころかイエス様に裏切ると見破られその場を出て行きます。そこに改善される余地がなかったのが残念です。

イエス様の正しさを知ったこと、自分の愚かさを知った事でユダは自らを追いやり自死に至るのです。

自死については後ほど別な機会を設けてお話しをします。

 

私たちは気をつける必要があります。メンツ、プライド、生き方の主張が自分を縛り、どうすることもできないほどに心を頑なにしてしまう事態があります。

ペテロも復活されたイエス様に会っていました。ですがガリラヤに戻り漁師の仕事を再開します。

ペテロは傷ついていました。

ですがイエス様から寄ってきてくださったから「証し人」として立つことができました。

ユダも復活されたイエスに出会っていればと思います。

 

 

では私たちはどうでしょうか。

 

 

イエスさまともっとも親しいマリアとマルタ、ラザロですが、受難週のピークとも言える十字架上には来ていませんでした。

これは推測でしかありませんが、十字架上にはイエスに関心を持つ人々が多く集まったと考えられます。

ラザロは蘇ったことで、イエスさまの痕跡を残さないと決めてかかり命が狙われていましたから、きっと身を隠していたと考えられます。

一方でラザロの兄弟であるマリアは、イエスさまが蘇ることを知っていたと考えられます。

聖書には書かれていませんが、マルタ、マリア、ラザロにも復活されたイエス様は会われただろうと思うわけです。

 

私の話は飛躍しすぎでしょうか?

 

イエスさまが大切にされた家族、受難週となる大切な時期からベタニアのこの家に何度も足を運ばれた。

その事から見ても大切な家族なんだと思いますね。

 

良い復活週をお過ごし下さい。

参考資料1