棕櫚の日に起きたこと。

 

 お題:棕櫚の日に起きたこと。

聖書カ所:ヨハネによる福音書12章12節〜16節

 

※ 前回より体調が優れず休んでおりました。いまだ体調不安が残る中ですが、出来ることをして進めております。

今回も皆様のご協力を経てバイブルカフェを開催致します。

 

 

 

棕櫚の日に起きたこと。 

センター2023/04/02 
 本日より棕櫚の日で聖週(せいしゅう)「受難週」が始まり、来週にはイースター「復活祭」を迎えます。そこで今日の聖書カ所ですが、
ヨハネの福音書12章12~16節
『その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」イエスはろばの子を見つけて、それに乗られた。次のように書かれているとおりである。「恐れるな、娘シオン。見よ、あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」これらのことは、初め弟子たちには分からなかった。しかし、イエスが栄光を受けられた後、これがイエスについて書かれていたことで、それを人々がイエスに行ったのだと、彼らは思い起こした。』
 キリスト教はこの箇所にあたる日を「棕櫚の日」として定め復活祭へと進む聖週とされています。
いつからそうしたのか。
史実からは4世紀とされています。つまり聖地巡礼が行われた時期からだと推測されるそうです。
あなたの王が来られる。
 イエスさまがメシア、王として群衆から迎え入れられた出来事には、ラザロの復活などの相次ぐ奇跡による影響があったと考えられ、人々の歓声が絶好調を迎えました。それは当時の政治的不安定や社会情勢のマンネリから、人々は改善を願っていたと言えます。つまり、メシア・王と叫ぶことには間違いがなかったものの、その意味については完全に理解されていなかったのです。これは、次の文章から読み取れます。
「初め、弟子たちはこれらのことを理解していませんでした。しかし、イエスが栄光を受けられた後、彼らはイエスについて書かれていたことを思い起こし、人々がイエスをメシアとして迎えたことがわかりました。」
弟子たちは、ペンテコステ以降にこの記事を紹介したとされ、聖書の旧約聖書に記されているゼカリヤ書9章9節が実現したことに驚かされました。このように、聖書の預言が実現したことは、イエスがメシアであることをより深く理解するためにも重要な手がかりとなったのです。
あなたの王が来られた
 ここではあえて「あなたの王は来られた」と説明します。
なぜか?
"娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。"
ゼカリヤ書 9章9節
ゼカリヤ書は、紀元前520年から紀元前518年の間に書かれたとされています。この聖書の言葉が現実化するため、イエス・キリストはその御業を実行しました。これは、この見出しのタイトル通りの事実であり、私たちにそのことを教えるためのものと考えられます。
現代の私たち、とくに日本では、「王様」は馴染みないものです。また「救世主」「メシア」という言葉もアニメなどでは使われますが、日常では期待されないものです。一方でウクライナに起きている戦闘中の最中においては救世主を望む者です。よって侵略者の排除、独裁者への天罰などの当事者から見た捉え方はいろいろです。「ホサナ」と感極まった人々の歓声はきっと先に書いた心情が湧きたち、自然と湧いたあるいは神さまに導かれて起きた期待であろうと考えます。
①「王様」という言葉は、支配者、統治者、指導者といった意味合いを持ちます。同様に、
②「救世主」という言葉は、人々を助け、救済する者という意味を持ちます。
聖書の筆者であるヨハネは「王」と「救世主」という言葉を用いることで、イエス・キリストが人々を導き、救済する存在であることを示しました。
そのため、私たちは聖書を通じて「王様」と「救世主」といった言葉を通じて、イエス・キリストが私たちの支配者・守護者であり、導き手であることを理解する必要があります。
また、それらの言葉には、イエス・キリストが私たちを助け、救済する存在であることを表しているという深い意味が込められています。
私たちがこれらの言葉を正しく理解し、イエス・キリストの導きの下で生きることが、私たちにとって真の意味での救いとなります。
王を受け入れる
 次の御言葉を思い出します。 
「また、だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。」
マタイの福音書 18章5節
私たちが王としての姿をイメージする際、目線を上に向けることが多いかもしれません。しかし、聖書には、イエス・キリストが低い目線を持って人々と寄り添い、仕える王として描かれています。
イエス・キリストは、人々と一緒に暮らし、食事を共にし、苦難を共有しました。また、
イエス・キリストは、弱者や社会的に排除された人々との接触を避けず、彼らに愛と慈しみを注ぎました。
イエス・キリストは、人々を尊重し、彼らのニーズに応えることに献身しました。
これは、私たちが「王」を崇拝する際にも、同じように真摯に接し、寄り添い、仕えることが重要であることを示しています。
聖書に登場する王の姿は、上から目線で支配することではありません。むしろ、身近にいる人々との関係性を大切にし、彼らのために奉仕することが重要であると考えられます。
私たちは、イエス・キリストが人々との接触を避けず、彼らを愛し、仕えたことを見習い、自分たちも同じように寄り添い、仕えることができるように努めることが必要です。これが、聖書に描かれる真の王の姿であり、私たちが目指すべき理想的な姿です。
救世主に対する期待をもつ
 私たちがメシアに期待すること、もしくは願う事とは何か。
"ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。"
イザヤ書 9章6~7節
A,社会的な問題にも取り組むことが期待されています。
①弱者や貧しい人々、社会的に排除された人々のために奉仕し、彼らを解放することが求められています。
②平和と正義をもたらすことが期待されています。
B,霊的な問題に取り組むことが期待されています。
①朽ち果てることのない新しいからだの提供
"キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。"
ピリピ人への手紙 3章21節
②霊性の祝福
私たちは、メシアに期待することも、自分自身が神の力をもって働きかけることも重要であり、バランスを持って取り組むことが求められています。
上記を踏まえ御言に訊く週としましょう。