【まとめ】あなたの日常を特別な場所とするために。

上記はタイトルです。

聖書箇所はヘブル書10章25節です。

ヘブル書10章から読んで頂くと分かりやすいと思います。

 

 


特別な場所の設置 「あなたの日常を特別な場所とするために」

 

(1) 祭壇を設置した。 

 これは礼拝です。あなたや、私にとって特別な事です。ユダヤ教祭儀やイスラム教祭儀でもなく、また新教、キリスト教祭儀でもないと考えます。精神的祭儀と言いますか。まごころを献げる祭儀であって、その対象は聖書の神さまへと考えます。ですから、聖書の神さまが私たちに示されたのが「まごころからの祭壇」とするならば、おのずとその姿勢は理解できるでしょう。まさにアブラハムのようにです。 まずは創世記を読みますと、夕方頃、神さまが園に降りて来られました。まるで人を気にかけて下さっているようです。それがエデンの園の追放後より、人の動向を伺い時折選ばれた人物に声をかけられます。それは聖書の神さまが、人間に関心をもつ、いや人間を愛しているので気にかけておられるのがわかります。そこからアブラハムによって、聖書の神さまと契約を結ばれました。そこからは「アブラハムのように」が肝心です。つまりアブラハムの信仰に倣うことです。それが「祭壇を築く」です。

 

そこは、彼が以前に築いた祭壇の場所であった。アブラムはそこで主の御名を呼び求めた。 創世記 13章4節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 以前というのは、創世記12章7節、8節の場所の事です。アブラハムは「そこで」祭壇を築き、主の名を呼び求めたのです。アブラハムが、聖書の神さまと交流する場所を聖なる場所と定め、特別な場所と定めました。ここが大切です。特別な場所では、まごころから神さまと向き合う。特別な時間なのです。それが定まった日でもあれば、時間でもあろうかと思います。何があろうと先ずは聖書の神さまに心を向けるという特別な時間と場所です。それが集合体となると、今で言う教会になるのではないでしょうか。

 

(2) 神殿が建てられた 

 ソロモンによって神殿が建てられましたが、その始まりは崇高で威厳に満ちた出来事でした。ですが、その後はさんざんです。神の御住まいともされた神殿は、その後に続く王や祭司によってその栄華を衰えさせます。ここでしっかりと考えたいと思います。手が血で染まったダビデは、神殿を建てる事は許されませんでした。ですがダビデの人生は、どこにいても祭壇が作られ、聖書の神さまに慕い願うということが繰り返されました。一方でソロモンは、神殿を手掛けた時、ダビデの教えとその使命も受け継ぎ清廉潔白な青年でありました。ですがソロモンは自分の才に溺れ、神さまの御前では高慢な者となりました。結果、近隣の民族から妻をめとり王妃700名、側室300名を側に置き、異国の信仰を神殿周囲に認めた。神殿の周囲となる高台には多くの偶像が設置されます。まさにソロモンの心の状態を指しています。これでは正しい礼拝などできるはずがありません。

 

"何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。"

箴言 4章23節  聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 偶像とは何でしょうか? 神々だけが偶像と言うわけではありません。聖書の神さまが教える事よりも大切にする優先順位が入れ替えが偶像となるのです。ソロモン王はそこを取り違えたので、その後のイスラエルに大きな苦が生じたのです。またダビデ王が苦慮しながらも神さまとつながった信仰が途絶えた瞬間でもありました。神殿はいずれ崩壊するのです。

 

 

(3) 集会が行われた 

 神殿は、信徒の集合体で建てられるものです。すなわち人の心がそこに関心を失うと崩壊するものです。あるいは、他国がその国の希望と言える神殿を壊すことによって失意を与える。それは歴史が証明しています。悪魔も同じように教会を壊そうと必死にもくろんでいることはご存じだと思います。ですが共同体が全てではなく、私たち一人ひとりが大切である事は察しがつくかと思います。つまり個人の信仰がいかに大切であるかを知る必要があります。そのような取組が集まると教会になるのです。その教会には、さまざまな賜物が与えられた人がいます。それを発揮することで、キリストの証ができるのです。また発揮するために集会が行われると考えます。つまり儀式でも儀礼でもないのです。あえて儀式とするなら、教会という共同体では「最後の晩餐」を再現する事です。それもイエスさまの思いを知って伝えるためです。そこに集会の意味があるとは思いませんか。まさに祭壇を築くための模範演技です。また愛し合う、励まし合うなどの実践の場が集会の一つであろうと考えます。次の御言葉を読みましょう。

 

ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。 ヘブル人への手紙 10章25節  聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 習慣(律法を守る)とは、ユダヤ教のコングリケーション(集会)を中心に指すものと思われます。つまり聖書の世界につながる民族、そこから発祥した宗教です。使徒の時代にはアッシリア捕囚やバビロン捕囚で離散したユダヤ人が多くいて、ユダヤ人と自覚する人々には共同体が作られました。それは生粋のユダヤ人が異国の地である証拠にエルサレムとの連携を深くとったのです。ですからキリスト教に関してはいぶかしく、注意を払いつつもこれを解体しようとした事は使徒の手紙の数々を読んでも理解できます。そのユダヤ人(宗教に熱心な)から、クリスチャンに向けて聖書の話しを聞くと惑わされる事に間違いないでしょう。それはヘブル書10章を読んでも理解できます。その他にもギリシャ神話的なキリストを創作して聖書の教えから逸らす信奉者も現れます。ですから著者は「自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。」と手紙を送ったわけです。ここで分かるように、集会とは礼拝と言うよりも、聖書を学ぶ、確認する場面であって、むしろそこには教師がいて、イエスのことばである聖書の教えにのっとるためにも、個人の相談等を受け祈り合う。集会及び集いとなるわけです。自分と聖霊と兄姉が繋がる発生を教会と言います。ですが、私がお話をする特別な場所とは、聖書の神さまとあなたが特別な時間をつくり、静かな場所で祭壇を築くことの他はありません。そのお手伝いとなるのがバイブルカフェです。

 

 

 

 

 

・あなたの日常を特別に

・手助けとなるように、バイブルカフェを開催しようと考えています。

・特別な場所としての提供は、聖書を語る・訊く場所となります。

・自分自身も含めて