士師ギデオンが亡き後

 士師記に興味を持って拝読していただければうれしく思います。とくに聴くドラマ聖書で聴きますと、イメージが湧いてなおさらによろしいのではないでしょうか。今回は士師ギデオンについてお話をしてきました。もし続きを話すなら神さまが選ばれた精鋭300人を引き連れて戦うギデオンのお話となります。この話の肝心なところは神さまは唯一である事と、人の手で造られた神(偶像)を明確に隔ていることです。なぜかイスラエル人は力ある神から離れ近隣が拝む偶像神に心を留める。その偶像の特徴とは、権力を持つ人が中心であって神憑ったものとして人を支配する道具として使う。それと比較して聖書の神さまは人に支配されない。このあと登場するサウルの物語を読むと一端の理解ができるかと思う。ここで少し触れるなら、サウルはイスラエルの神さまを侮り預言者サムエルの分を越えた。それからはサウル自身の思うところに神さまは存在しないで預言者サムエルと激しく対立する。やげて次の王としてダビデに油が注がれると嫉妬に駆られます。サウルは思い通りにならない事で心が深く病み続けます。サウルはイスラエルの神さまの御心を知って、摂理に心身とも委ねようとはしなかったのです。

偶像とは人の心であって、願いと欲望、覇権であり支配欲。執念であって呪いでもあるのです。

話は少々違いますがシンボルは重要です。平和を追い求めるシンボルや、平安があるようにと祈るシンボルなどです。それに気づかせてもらえることです。神観をしっかりと持ちつつ全て分けて考える事ができると感謝ですね。例えば、過去に起きた津波のラインです。そこには鳥居や石碑が建って警告していました。昔の人々は自然災害は神さまからなるもので、その災害から生き残った人々は津波の到達ラインに鳥居を建てその奥には宮を設置しました。ここには地元の信仰心が融合してできたのだと思います。私は何が言いたいのか。日本人は何でも偶像化にする神観の問題です。私たちは神さまを軽視する心が起きないように日々を敬虔に生きようと思います。

 

ギデオンが死ぬと、イスラエルの子らはすぐに元に戻り、もろもろのバアルを慕って淫行を行い、バアル・ベリテを自分たちの神とした。イスラエルの子らは、周囲のすべての敵の手から救い出してくださった彼らの神、【主】を、心に留めなかった。  士師記 8:33−34 


最期までの拝読に心から感謝します。

11月13日の収録はお休みとさせて頂きます。

いつも思う事ですが聖書のお話で大切なのは、

その箇所を読んだあと、本人が気づくヒント、その導き手になれたのかが大切かと考えています。

私が願うのは、聖書が導こうとする目的への意図です。

その辺を気にしながら短いですが今回も文章にしました。

何度か目を通して頂けると感謝です。

それでは、皆さまにとって良い週となりますように。

心からお祈り申し上げます。

 

中澤竜生