キリストがお見えになるまで、イエスさまの教えを全うする。

2022年8月21日 明朝公開

 

お題の変更ですが、キリストからの恵みから「キリストがお見えになるまで、イエスさまの教えを全うする」としました。

ザァカイさんのお話から続きます。

聖書の御言葉(共同訳) 

ルカによる福音書19章

19:10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

19:11 人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。

19:12 イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。

19:13 そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。

19:14 しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。

19:15 さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。

19:16 最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。

19:17 主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』

19:18 二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。

19:19 主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。

19:20 また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。

19:21 あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』

19:22 主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。

19:23 ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』

19:24 そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』

19:25 僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、

19:26 主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。

19:27 ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』」

19:28 イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。


ザァカイさんの救いから続くお話です。

あの罪人ザァカイが改心した姿は地元の人々にとって衝撃でした。そこにエルサレムへと上る途中にエリコがある。多くの奇跡を目にしたユダヤ人はいよいよと心高鳴ります。

 

神の国の実現期待。

当時のユダヤではメシア待望の期待が高まっていた。つまりローマによる圧政の中、モーセのように救世主が現れると思ったのです。これも当時の預言の一つです。それで救世主と言って様々な人が現れるのです。<ユダヤ古代誌>

その噂が正しくなければ、いずれ消滅すると言った通りです。

武器を手に持ち争うバラバの群れもあった為に、人々は何を信じたら良いのか分からない時代でもありました。

ですが、イエスさまの活動だけは他の活動者たちとは違う。それはザァカイの改心から見て判断できるものでした。人の生き方、心の変化はそんな簡単な事ではないのです。まさに奇跡でした。

ユダヤ人が一つとなる。死からよみがえる(もう一度死ぬのですが)。圧倒的な力となる奇跡を起こすイエスが神の国の実現、預言を成就させる期待が高まりました。

 

ユダヤ人の神の国とは覇権です。

当時の圧政は武力によるものです。この武力を無に帰する為には、さらに強い武力が必要となる。そして勝利した時には他の国を圧政する。ユダヤ社会の神聖国家でした。

1、   その王国にはイエスは無用であること。

2、   イエスからの恩恵を受けたはずが、恩恵を受けた生き方をしない人々

3、   主人を恐れているように見せて、実は主人を理解していない。侮った人々

上記のような人々の神の国イメージは利己主義的な考えをもつ人たちでした。

イエスさまが語る神の国とは、失われた者を探して救うという計らいが常にあるところです。

 

ムナとは。

ご主人が遠くに出かけるため、しもべにムナを預ける。遠くに出かけるとは、十字架と昇天、その後の事でしょう。ですから、しもべとされる人々にムナを預けるのです。

そのムナとは、使徒の働きを読みますと聖霊と理解できます。その聖霊をむげにする、埋める人々がいるのです。ここは私の解釈です。

私は聖霊を理解するように努めています。つまり、わからないとか、理解できないのではなく、受け入れる。その上で聖書を朗読し、私に何をお話ししようとされているのかと問い続けるのです。つまり聖書を読んで、書かれている事を信じて、聖霊を受け入れる。そこから信仰問答が始まります。生涯の関係です。人との対話時にも聖霊は語りかけて下さる。時には私の態度は間違えていると気づかせてくださる。敬虔な霊を注いでくださるのです。イエスさまは言いましたね。私の代わりに助け主を送りますと。それをむげにしてはいけません。聖霊を悲しめてはいけないのです。

目の前で打ち殺せ。

この言葉は厳しいですね。できるなら聞きたくはない文章です。旧約時代から根絶やしなどの言葉は溢れています。事実、そのような時代であったのでしょう。現在ではミャンマやアフガニスタン、北朝鮮、アフリカなどで殺戮は起きています。そこでは道端に横たわる死体はそのままで日常的です。日本も100年前までは遺体がさらされている時代がありました。ましてやイエスの時代はさらにひどく、私たちは知り得ない事でしょう。乱暴な言い方と思うのですが、この譬えでは、弱いものを懲らしめる者への憤り、神様のジレンマが現れた言葉だろうと考えます。

私たちの時代は、どこまでも生かす言葉と祝福を致しましょう。