招かれる人たち

2022年7月24日(日) 午前0時より公開となります。

共観福音書時系列でお話を進めいます。

YouTubeとテキストよりご覧頂けます。

 

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気をつけてお過ごし下さい。


 

2022年7月24日 Sunday Service 共観福音書時系列

メッセージ : 選民という言葉に捕われた特別意識には要注意

招かれる人たち

ルカによる福音書14章7節~24節

 

  1. 謙遜を失った人たち 「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」11節に記載されています。ファリサイ派のある議員の自宅で食事に招かれます。その時にイエスさまは譬え話をします。イエスさまはいつも身近な事を使って大切なお話をされます。今回は席順についてです。どの国でも席順について教えがあります。日本では道徳として教えられます。上席に座る人は目上の方、あるいは主賓です。ここのお話は位の高い人から上席となっていたようです。実際にユダヤ文化、ローマ文化、ギリシャ文化の共通の常識でした。そのような譬えから見えることは、他の方が普段のあなたの働きを評価し所定の席に案内して下さると言う事です。イエスさまと対立する宗教者はいつも自分が正しい。自分が偉いと言い謙遜性を失い、ファリサイ派メンバー以外を下に見ていた。自分を高評価する愚かさを指摘しています。7節~11節
  2. 神の国とはどのような国でしょうか。ここでもやはり、譬えを使ってお話をされます。それは宴会(親しい人との食事会)に想定します。イエスさまが招かれた食事会にはファリサイ派の議員と議員の友達でした。通常は知っている人を招きますね。そして次回の食事会は誘われた方の所で招待するでしょう。つまりお返しにと言う事です。これが悪いと言っている訳ではありません。つまりお返しが出来ないであろう人を誘い食事を提供する。それが神の国の趣旨だと説明するのです。その話を聞いた主人は「神の国で食事をする人は、なんと幸いな事でしょう。」と答えました。ですが共感したその内容は期待しないサービスです。つまり「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」です。その後、主人は見返りがない食事会を提供できたのでしょうか。ここで2点を考察できます。① この世で悲しんでいる人たちを覚えなさい。② 地上で受ける事がなかった評価は神の国で受ける事になる。イエスさまを誘った主人に御心を伝えた大切な時間でした。
  3. 選民にこだわる人たちと、イエスさまに招かれる人たち。最後の例えは大宴会への招きの譬えです。初めに招く人が決まっていましたが何故か断る人で続出します。主人は怒り招待の枠を広げ大宴会にはふさわしく無いとされる人々を招かれます。ふさわしくないと書いた人々は宗教者が毛嫌いした人々のことです。イエスさまはこのような人々をふさわしく無いとは言わないで心から愛されました。ですから譬え話を聞く人々に向け、心に引っ掛かる言葉でお話をされます。つまり『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』大宴会を催す神の国ではアブラハムのように天を仰ぎ見る敬虔で謙遜な信仰者でした。最後に『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。』でした。これはユダヤ人に限らず、異邦人を含める人と共に食事をしようという事です。

 

 最後に当初から招待されていた人は食卓に参加できません。自ら断った結果でした。なぜそのような結末を迎えたのでしょうか。それは、主人の招待を蔑ろにした結果でした。また彼らが望む主人とは彼らにかなう人です。これを偶像(アイドル)と言います。他にも理由はあると思いますが、彼らは選民意識を高く持ち、割礼を受けていない人以外は神から遠い存在(異邦人)と見做し。主人さえも否定してしまうものになってしまったのです。私たちは招かれたのです。いつもそこに留まりましょう。