人を思うイエスさま。安息日について


皆さま。おはようございます。

連日の豪雨で心配するところです。

どうか気をつけてお過ごし下さい。

 

今回は少し早めに聖書の教えの案内を送ります。

目の検査があるためです。

映像は日曜日早朝から公開です。

今日が良い日でありますように。

2022年7月17日㈰ 0時より配信です。

下記には文章にてお伝えしております。

皆さまに祝福が豊にありますように。


ルカによる福音書141節~24節 <時系列聖書のお話>

題:人を思うイエスさま。 イエスは命を優先されるのです。

恐らく場所はペレアにて(共感福音書の時系列より)

 

聖書:ルカによる福音書 新改訳聖書2017より

14:1 ある安息日のこと、イエスは食事をするために、パリサイ派のある指導者の家に入られた。そのとき人々はじっとイエスを見つめていた。

14:2 見よ、イエスの前には、水腫をわずらっている人がいた。

14:3 イエスは、律法の専門家たちやパリサイ人たちに対して、「安息日に癒やすのは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」と言われた。

14:4 彼らは黙っていた。それで、イエスはその人を抱いて癒やし、帰された。

14:5 それから、彼らに言われた。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者が、あなたがたのうちにいるでしょうか。」

14:6 彼らはこれに答えることができなかった。

 

1,当時ユダヤ人は安息日をこのように捉えていた。

「安息日には働いてはいけません」という考え方は昔からです。なぜそのようになったのかの説明は困難ですが、おそらく宗教家が神さまの権威を信奉者に強く勧める中、一部ですが手を使う事も仕事であると極端な掟にたどり着いたのだと考えられます。さらに律法を遵守じゅんしゅせようと躍起やっきとなり雁字がんじから目になったと考えられます。いずれにせよ律法学者が律法を守れという監視役となり、行き過ぎた特権付き監視を行うようになったと考えられます。このような間違った解釈を正そうとされるイエスの姿がありました。

 

2,安息日は人の為にあるもの。

 聖書には、

そして言われた。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。ですから、人の子は安息日にも主です。」

マルコの福音書 22728

 

 神さまを覚えて心から礼拝する。このことは大切です。ですが解釈を間違え、度を越すと先の律法学者のような考え方になります。それだけでは無く、他者に強制するようになりますと「さばく」思いが発生し知らず知らずに心を傷つけます。まずは自分が心から神さまを慕う信仰を身につけましょう。ですが礼拝の重要性は伝える必要があります。それが教えの伝授だと考えます。例えば、災害の悲惨性は伝承する事から命を守る備えができます。それと同じようにイエスさまの教えを聴くことで、さまざまな事に対応することができます。また自分の経験を越えた体験ができ備えることやチャレンジができるのです。ですから神さまが定められた安息日、聖とする日を定め、たましいの休息と御言葉による活力を受けてほしいと思います。

 

3,イエスさまは毎回のように諭す。

 先に示したように、神によって創造された人間が全てに調和がとれるように生活される事を勧めます。それを共に学ぶ時間を取りましょう。何度も言いますが、アブラハムの礼拝はいつも畏敬の思いを持って神さまに生け贄を捧げましたが、これが求められている礼拝の姿です。今の礼拝形式はユダヤ民族として、群衆で礼拝をささげた姿が歴史の経過を越えて現代の型となりました。そのような礼拝が特別意識を持たせます。それが選民意識を深め、特別であろうとする意識がズレていく解釈を生み出し逸れる方向へと進ませたと考えられます。私たちクリスチャンも人と話をする時に「自分は正しい」という目線で話をする時があるようです。つまり否定です。極端に人生を否定されると違和感と警戒心だけを与えます。特別意識、選民意識には警鐘を慣らしつつ大切な恩恵を受け止めていきたいと考えます。

 

4、異邦人である私たちは、ユダヤ人を真似る必要はない。

 収録した映像で誤解が生じないように書きますが、聖書の教えを否定するものではありません。旧約聖書も新約聖書も大切な教えが書かれています。これは神さまが、人類に重要な生き方を伝えようとされている。それがイスラエルの歴史であっても重要なメッセージだと考えています。ですから無駄などとは思いません。だけどもユダヤ人の真似をする必要はないと考えます。とくに祭儀礼などについてです。私は次のように思っています。

  真心まごころから

  行動の実が信仰を明らかにする

つまり、祭儀を催しても、心が神さまに向いていないなら偽善者であって、それを神さまは喜ばないと聖書に書いてあります。自分は偽善者になっていないと言うかも知れませんが、聖書の教えから見て見ぬ振りをしていたとなれば、例え礼拝を守っていたとしても偽善者です。

神さまの前に立つ者は、砕かれた悔いた心で敬虔であわれみに満ちた心をもつ必要があります。しかし、こんな人間がいるでしょうか。私はいないと思います。ですがこのような思いを抱きながらイエスさまに心を向け葛藤する信仰者は多くいると確信します。その思いが毎日だとすれば、その人はいつも礼拝をささげている人です。それにこのような人は生き方にも表れます。それが御霊の実です。

御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。

ガラテヤ522節、23

 心からの礼拝を捧げよう。

ローマ

12:1 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

 

 つまり、礼拝は重要です。信仰の絆を深めるためには欠かせない事です。どんな時も創造主を意識した日々を送る。祈り、賛美、御言を身近にする必要があります。それも自主的に、1日の初め、1日の終わりは当然ながらイエスさまと向き合いましょう。これらと同様に身勝手な理解や解釈ではなく、神様を知る事に従順で勤勉であるようにしましょう。そのための集会です。

 

ローマ 12:11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

 

文責:中澤竜生