キリスト教にとって霊的とは。

2022/06/26 午前0時より公開

キリスト教にとって霊的とは。

 

聖書:"私は贈り物を求めているのではありません。私が求めているのは、あなたがたの霊的な口座に加えられていく実なのです。"

ピリピ人への手紙 4章17節

辞書:霊・精神に関するさま。また、神聖で清らかなさま。

 

 

私は神学者ではありません。けれども宗教という類いに身を寄せて45年は経ちます。とくにキリスト教に入信し「霊的」という言葉をどれだけ聞いたでしょうか。また霊的というメッセージに霊的でありたいとどれほど願ったことだろうか。当時の私は「神の声」を聞く、あるいは常に神からのメッセージがあって「聖」として生きているが霊的と推察した。まさにそうありたいと追求し願ったものです。

私は若かったせいか「霊的」に挫折し、道外れ涙したものです。

第三者に向ける霊的な生き方の簡素な声掛けには諸悪にも感じるのです。つまり無責任で、方向性が見えない捨てた言葉と考えるのです。

では霊的とは何を指し、どのような意味があるのでしょうか。

1,「霊的」は何を指すのか。

英語ではスビリチュアルですね。精神と訳されます。この精神を養うために私たちは聖書を読むわけです。時には断食などをして肉体を精神が支配する。この事で神様に近づくのです。他にもきっとあると思いますが、皆様もお考え下さい。つまり、神様に近づくために「霊的」効力を高めるわけです。信仰がなければ霊的という言葉も無用な世界です。

2、「霊的」に目指すところ。

神様に近づくことと書きました。どの神様も崇高で私たち人間が近づき難いものですから、精神に磨きをかけていくわけです。

3、キリスト教にとって霊的とは。

だれもかしこも霊的にと話をする。私もその一人でついつい口から出てくる。つまり癖ですね。昔々「霊的であれ」と標語がかかり説教された事がある。霊的であるために「祈りましょう。」と言われ祈った事もありましたね。懐かしい。しかし、このように言っている時点で意味が解っていなかったようです。きっと説教された牧師は「霊的とある為に〇〇◯学び、祈りましょう。」と言ったのでしょう。きっと私が話の一部を抜かしていたのだと思います。そうであって欲しいかな。(心の声)

a 律法が霊的なもの ローマ書7章14節

私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は肉的な者であり、売り渡されて罪の下にある者です。"

ローマ人への手紙 7章14節

パウロは律法が霊的によって書かれたものと紹介しています。つまり出エジプト記で受け取った律法は人の為の戒めで、精神の成長を促している。つまりこの時代は殺人は当たり前、奪うことも日常茶飯事であったわけです。ですから神に選ばれた民は王が定めた規律、国が定めた法律ではなく、神自身が霊的成長を望んで授けた人の為の戒め、これを霊的と書いているのです。では尚更にクリスチャンは山上の垂訓を含めたイエスの教えは霊的に伝えられたものであって、私たちがクリスチャンとして生きていくために霊的声に耳を傾ける大切さがあるのではないでしょうか。

b 霊的な実践 ピリピ書4章17節

私は贈り物を求めているのではありません。私が求めているのは、あなたがたの霊的な口座に加えられていく実なのです。"

ピリピ人への手紙 4章17節

パウロを支援する人々の心は愛で満ちていました。そこに深く感謝を捧げています。ですから兄姉に向けて霊的成長がさらに良い働きによって得られるようにと願い書きました。

 

霊的とは「学ぶ心」と「学んだことの実践」を指している事がわかりますね。しかしここで終わってしまうとキリスト教ではありません。実はさらに大切な事があります。これは重要な事です。それは、

 

c 聖霊

神の霊です。ここを抜いてはいけませんね。一方で先の学ぶ、実践を抜いて霊の部分だけで霊的と言うのは良くありません。しかし、残念ながらこの落とし穴にはまる人は多いのです。つまり霊的を錯覚し抑揚に流される。感情や身体に表れる事などを含めて霊的と思われる事が多いのです。

 

a+b+c=調和が大切です。

 

霊的と言葉を加えてお話しする場合は、どうか簡略にしないで、証を加えながらお話をされますように。

皆様の祝福をお祈り致します。