決めつけられた人生

Ⅰ、決めつけられた人生
1,盲目で生まれたのは、誰が罪を犯したのか。自分か、あるいは両親か。(闇)
A, 聖書では、モーセの教えで次のみことばが書いてあります。 出エジプト記34章6,7節 
6 【主】は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。①「【主】、【主】は、②あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、③恵みとまことに富み、7 ①恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を②赦す。③しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」
B, イエスの時代のラビによる教えで、例えば、母親のお腹の中でけるなら、罪を犯したことになる、と言われている。
2,イエスの、全く違う応答(光)
この人に①神のわざが現れるためです。3節、と言って、次に、「わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」と言われた。イエスとつながる私たちは、イエスの存在を現しつつ生き続けるので(あかし)、光の差す見方や判断をしたいと願う。

Ⅱ、安息日に起こされたいやし
1,パリサイ派の神学では、安息日にいやす行為は律法(口伝)違反とされている。
【聖書】地面に①唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の②目に塗って、「行って、①シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。6,7節
2,タルムードに書かれている規定、例を使い、あえて活用した。

Ⅲ、メシア宣言となるいやし
1,パリサイ派の神学では、生まれつきの盲目をいやすことができるのは、メシアだけとされていた。ですから、イエスは、イエスの兄弟に言われたように宣言をされた。
2,一方で口伝律法を無視された癒やし行為は、民衆を大いに戸惑わせた。