天に宝を!

 マタイによる福音書6章19節から34節

「山上の垂訓 −天に宝を!−」

 

 1,天に宝を蓄えなさい。という勧めです。

 それで地上で宝を追い求めることとはどう言う事なのかを説明しています。19節〜20節は、あなたが追い続ける価値観に心も縛られていると、イエスさまは云った、とマタイは証言するのです。

 2,価値観を作る始まりは「目」にあるのだと云います。

 つまり目より情報源を得て、それによって判断(価値観)を得ます。22節〜23節では、肉体(目)からの情報源となりますが、マタイは「うちにある光が」とも記録しており、それは霊的(こころ)な目も指しています。その目(こころ)が見えていない、その目の働きをしていないのであれば「闇」と云います。つまり、冒頭で「あなたの目が健やかなら全身が明るく・・」と記載されていますが、先の価値観(自らの宝)によっては目から入る輝きはなく「闇」であって、闇からの判断(動機)は最善とは云えないと勧告しています。『いずれ朽ち果てるものとなるか、あるいは価値あるもののはずが、そうでない結果へと誘われる。それを「虫やさびで傷物になり」と表現していると思われる』

 3,二人の主人に仕えることはできない。 

 更なる追求は24節で「神と富とに仕えることはできない。」ということです。二人の主人とは神と富です。そこで、イエスさまが誘惑を受けたシーンを思います。譬えイエス自身の王国が与えられようとも、主を礼拝し、主にのみ仕えると言い切りました。また順序は別ですが、自分の空腹を知って誘惑を受けた際、石からパンになるように命じることはしないで、『神の口から出る一つ一つのことばによって生きる』と書いてあると宣言しました。この事の姿勢を私たちに問い掛けているのではないでしょうか? 私たち信仰者は「・・と書いてある。」と云って、神である主人に仕えたいと願うのです。

 4,私たちは価値ある存在。 

 ここからは有名な聖書のことばですね。いろいろと心配することなく精一杯にこの地上で生きなさい。と言われています。必要最小限に生きていければ良しです。昔から清貧という私欲を求めない生き方があります。それは神さまに示されてのこと、あるいは、自分が神さまの前にあって清くあろうと考えそのような生き方を選ぶ人もいます。神さまに仕える素晴らしい生き方です。それこそ自然と調和した生き方かと考えます。

 5、先のような生き方を選び、その上で私たちは「神の国と神の義を求めなさい。」と云われているように思います。

 最後に、生き方については強制されてするものではありません。神さまから問いかけられた事で祈り考え決めて行く必要があります。常に御言と向き合って決定する。そうすれば「神の国と神の義を求めなさい。」という生き方に結びつくのではないでしょうか。