山上の垂訓 姦淫をしてはいけません。

本日は、山上の垂訓から始まる「イエスの教え」となる、1、姦淫してはならない。2、誓ってはならない。3、悪い者に手向かってはいけません。4、あなたの隣人を愛しなさい。の4項目からお話を勧めていきます。

聖書箇所は、マタイ527節〜48節です。

 

本編に入る前に再度確認をして参ります。

イエス様はユダヤ人(会衆)に向けてお話をしました。それをマタイが聞き、イエス様の昇天後に文章にて遺しました。そのマタイはユダヤ人向けに書いたとも言われています。

それで、毎回お話をしますが、「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。」17節を念頭において読むと良い訳です。

また、パリサイ人と対峙するイエス様は常に「こころ」を見られます。イエスの話を聞くが、常にその心は「謀」があるというものです。そこで神様は常に心を見られるのです。「しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」」 サムエル記上 16:7 新共同訳

 

心を見られる主

1、姦淫してはならない。 社会的な事件、犯罪となることは、話すまでも無い大罪です。被害者は一生、そのことで悩まされるのです。ですから社会はそれを取り締まる必要があります。ですが、世界では権力者のもと被害者となる人たちが沈黙することは常です。そこには先進社会が道徳的教育をしていく貢献的活動が必要なのです。

これは男性だけに向けたメッセージではありません。女性であろうとも同じです。そのように考えますと、電子本の案内を見ますと否が応でも、「よろしくない」ものを見ます。それを危惧し海外ではそれに制限をかけるところもあります。日本では世帯ごとに気をつけて、親が教育する必要があると考えます。

さて、当時のユダヤ人(会衆)に向けてのお話ですから当時も今も同じではないかと考えます。「してはいけない」だけでは変えられない人の心があります。例えば「性癖」という言葉があります。それは安易に済ませることはできません。ある人にとって、自分の人生を狂わせたり、生涯の終わりとなる事例もあります。なので「からだの一部を失っても」と話をされたのだと思います。頭で悪い事と分かっていても、自分を制御することができない。これは「病」です。抗って対応する他に術はなくと軽く考えないほうが良いかと思います。その理由として「育ち」による親子関係、友人関係、空想に浸る病などがあるからです。ですから当事者は他の信頼できる人に話をして生涯の取り組みをする必要があるかと考えます。この心(魂・霊的)な病は、若い時に早ければ早いほど治療効果が良いと考えます。

次に離縁についても説明がなされており、身勝手な離縁は妻に姦淫をさせる事になると書かれています。これは夫が身勝手に、つまり事情が曖昧で、離縁の理由(レビ記21章)、モーセ書にも記載されている以外はしてはいけないとされます。ですからモーセ書の教えに反した離婚は全てが、男であれ女であれ姦淫罪に当たるとされるのです。ですがこれは表上のお話です。神様は離婚の動機を探るお方です。イエス様とて同じ事です。

心を見られる神様がおられる事を覚え、しっかりと頭でも理解しつつ、向き合いたい課題の一つであります。

 

2、誓ってはならない。その対象者は私たちです。しかも頭に「偽って」と書いてあります。イエス様が誕生する前のユダヤ人たちは選民の民です。神様に向けて儀礼を行う民です。ですが、神様をないがしろにする民は、安易に言葉を出してしまう。イエス様は父なる神様を敬うものとして、放置できない問題であったと考えます。これと似た事例が生贄を捧げる儀礼です。彼らは心から罪を悔い改める姿勢を見せない。それはミカ書に書かれています。「何をもって、わたしは主の御前に出で いと高き神にぬかずくべきか。 焼き尽くす献げ物として 当歳の子牛をもって御前に出るべきか。 主は喜ばれるだろうか 幾千の雄羊、幾万の油の流れを。 わが咎を償うために長子を 自分の罪のために胎の実をささげるべきか。 人よ、何が善であり 主が何をお前に求めておられるかは お前に告げられている。 正義を行い、慈しみを愛し へりくだって神と共に歩むこと、これである。」

ミカ書 6:6-8 新共同訳

イエス様は人に「誓ってはいけない」と言われ、「はい」あるいは「いいえ」と答えるように勧められるのです。

 

3、悪者に手向かってはいけません。ここで有名な言葉が「あなたの右の頰を打つ者には左の頰も向けなさい。」です。対峙するもの全てが悪ではありません。私たちには落ち度があるものです。その場合は丁寧に優しく話し合いをすることが必要かと思います。中々自分でも難しいことです。ですが弱いものを苦しめるものは「悪」であることは間違い無いと考えます。その場合は知恵を用いて対応する必要があるかと考えます。では、この場合はどのようなことを言っているのでしょうか。悪者と対峙する自分を考えてコメント下されば感謝です。

 

4、あなたの隣人を愛しなさい。 隣人を愛する話は、聖書のお話でよく耳にするものです。そしてその隣人とはという問い掛けも良く聞く話です。皆様はどのように実践されていますか?さらに聖書は次のように付け加えます。「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」自らに影響のない遠い世界での話なら、迫害を受けている方々のために祈ることができます。例えばイスラエルとパレスチナ抗争です。しかしもっと身近な事として考えればどうでしょうか? 聖書は「自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。」と問い掛けられるのです。

 

最後に、とても難しい課題を投げかけられました。

あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。

 

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コメント: 1
  • #1

    佐藤多津子 (日曜日, 26 4月 2020 12:00)

    メッセージ、ありがとうございます。「悪に手向かってはならない」という教えには、深い意味が込められてるように感じます。人間は自分の弱さをごまかすために、自分よりも弱い立場の人を傷つけ、孤独にさせ社会から孤立させることをします。自己保身のために他者を犠牲にして傷つけることが悪なのだろうと、私は思います。そう考えたら、原罪に辿り着きました。自己保身という罪を克服することは、容易ではありません。
    神様の目には、原罪に翻弄される人間は弱い存在と映るのでしょう。十字架の贖いは、イエス様が原罪の責任を背負われた結果であると、深く心に刻まれる思いがします。「悪」はこの世に起こる犯罪の根源、自己保身という罪です。自分では拭いさること、消し去ることはできません。
    しかし、自己保身を捨てる努力はできます。それが悪を放置しないということなのではないかと思います。