共観福音書 時系列説教 「夜通し祈りの後、12弟子を選ばれる」

§53 夜通し祈りの後、12弟子を選ばれる
マルコ3章13節〜19節
13 さて、イエスが山に登り、ご自分が望む者たちを呼び寄せられると、彼らはみもとに来た。14 イエスは十二人を任命し、彼らを使徒と呼ばれた。それは、彼らをご自分のそばに置くため、また彼らを遣わして宣教をさせ、15 彼らに悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。16 こうしてイエスは十二人を任命された。シモンにはペテロという名をつけ、17 ゼベダイの子ヤコブと、ヤコブの兄弟ヨハネ、この二人《ふたり》にはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。18 さらに、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、19 イスカリオテのユダを任命された。このユダがイエスを裏切ったのである。
ルカ6章12節〜16節
12 そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。13 そして、夜が明けると弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をお与えになった。14 すなわち、ペテロという名を与えられたシモンとその兄弟アンデレ、そしてヤコブ、ヨハネ、ピリポ、バルトロマイ、15 マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、熱心党員と呼ばれていたシモン、16 ヤコブの子ユダ、イスカリオテのユダで、このユダが裏切る者となった。 
聖書にある使徒とは=(ギ)アポストロス「派遣された者」・「使節」「使者」と言う。使徒という訳語は中国(漢訳聖書)から継いだもの。
では「使徒」とは誰か=イエス‐キリストが、多くの弟子たちの中から選んだ一二人の弟子。すなわち、ペテロ(シモン)、ヨハネ、アンデレ、セベダイの子ヤコブ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、ユダ(ヤコブの子、別名タダイ)、熱心党のシモン、イスカリオテのユダの一二人で、キリストは特にこれらの弟子を使徒と名づけた。一二人のうちイスカリオテのユダがのちにキリストを裏切り、代わりにマッテヤが選ばれた。十二弟子。使徒。
だけれども、パウロも自身で使徒と言っている。ローマ1章1節
また、1コリント15章6節〜11節には、
6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。7 その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。8 そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。9 私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。11 とにかく、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。 
すなわち、キリストにあって召命を受けた者を「使徒」と言っており、しかも「最後に」と言っている。
つまり、使徒とは「直(じき)、イエスにあって使命された者」と言えるのではないでしょうか?
 いつぞやか、集会広告に20世紀の使徒と書いたポスターを観たことがあります。ですが、私たちは「主のしもべ」という名の下で、現在の証人と働きたいものです。

 さて、称号よりも大切な事とは、「使徒」も、「主のしもべ」も同様に大切な事があります。それが、次の事です。「彼らを遣わして宣教をさせ、15 彼らに悪霊を追い出す権威を持たせるため」。14節後半から15節に書かれていた二つの事。つまり、
A:イエスが遣わし宣教させる。B:遣わしたものに権威を与える。の2点です。

A: イエスが遣わし宣教させる。これは派遣と言っても良いかと思います。私は昔から、説教の中で「皆さまは今ある所に派遣されたのです。」とお話をしました。その場合、私は聖協団現理事長をはじめ、理事の皆さまの「祈りによって」任命を受けます。その任命(派遣)はイエス様からであると信じて現場に向かいます。そして、私は共同体に集まられる皆さまに向けて、派遣された場所に仕えるメッセージを伝えます。派遣された者の任務は「キリストの愛」を伝えて、実践する者です。「宣教に関してはいろいろと言いたい事がありますが、ここでは避けます。」
B: マルコによる福音書は、何やら他の福音書とは違う視点、マルコの性質を垣間見ることができます。マルコはこの文章の中で「悪霊」について多く書かれている。この時代の関心事であったように思います。この時代の悪霊に取り憑かれた人とは、どのような人なのでしょうか?
現在では、「神戸連続児童殺傷事件」の別名「さかきばらせいと」がその一例でないかと考えます。つまり、彼の内側には殺傷するための隠れた「声」があるということです。実は異常な犯罪には「声」がしてと供述があります。もちろん精神的病気のゆえにと言うことは十重に承知していますが、現代医学であっても精神面に関することの確かな原因根拠がないということです。
イエスの時代は尚更であって肉体に関することは「病気」、回りとは違うこと、極端に変わったことをすれば「悪霊」と呼ばれていたのではないかと推測するのです。根拠はありません。
ただここで言えることは、その時代には「相手にされなかった」「放置されていた」あるいは、危険な者に対しては「鎖に繋がれていた」など、親族は大変苦しかった事であろうと推測できます。まさに「神」でなければどうしようもできない。それが癒された。解放された、は神の力としか言いようがないと思ったのです。その解決に対する権威を弟子たちに与えた。
最後に、病を癒した、悪霊を追い出した、この一連に最終的な解決はないと言うことです。正常な生活が送れるようになった、のかも知れません。だが、人はいずれ「死ぬ」と言う現実があります。実際に困った人が目の前にいる、そこにイエスは向き合いました。ですから多くの方がイエスに近づいてきたのです。だけれども、それが真の目的はありません。その目的に沿った人生を歩むために、「神の国」を伝える必要がイエスにはあったのです。
つづき