今年もあと少し、大変お世話になりました。

 

最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、

 

すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、

 

すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、

 

そのようなことに心を留めなさい。

 

ピリピ48

 

 

 

 2018年は、私の過ごし方を「静寂の時」としました。その理由は、周囲の方々からの言葉で休まれた方が良いというアドバイスでした。その頃の私は肉体も、精神も、疲弊しきった姿をさらしていたに違いなく、そこに判断が出来ない、或いはブレが生じていた事でした。当然そのブレは自らの不安を誘い、親しい人には愚痴もこぼれ、日常的に鬱であって後悔が付き纏うものでした。

 

 

 

 2017年の冬から休むために経済支援を東北ヘルプより受けました。活動するための資金はあっても、休む為の経済が与えられなければ実現しません。また具体的休息には、センタースタッフ(信徒)と、東北ヘルプ(協力団体)及び架け橋を応援下さる皆様と、家族の理解も必要でした。そこでお伝えする事に時間をかけました。それによって「静寂」が実現できました。

 

 

 

静寂とは何か。また静寂をどのように過ごすのか。静寂を正しく理解し過ごす事で次に繋がると思った時、ピリピ4章8節の御言葉を思い出しました。その御言葉を通して静寂は、聖霊との交わりの時であって、聖書の教えを学び悟るときとした。

 

 

 

疲れた肉体は、健全な精神によって回復する。健全な精神はすべての見方が真直ぐでブレない。そして敬虔で謙虚であって、配慮ある対応を心掛ける。ここ6年間(2011年より)の私は、我武者羅であったし、押されながら必要を実行してきた。また日常で重要なことも学び大切な事も多く発見しました。その一方で出来事に対応するために考えを変え、心身を切る辛い思いも経験しました。そのような日々を重ねても、心が守られたのは、常に普遍性を備えたクリスチャンという隣人がいたからでした。そして、静寂の時で欠かせなかったのは兄弟姉妹の交わりと御言葉でした。

 

 

 

心を留めなさい。自分の知る範囲、経験した範囲内だけでなく、真実なこと・尊ぶべきこと・正しいこと・清いこと・愛すべきこと・評判の良いこと・徳とされること・称賛に値することに全身全霊をもって傾け、受け留める。この姿勢は敬虔で謙虚でなければ出来ないことです。また心静める「静寂」という時を自らが作る必要があります。私自身は周囲によって良い時間が与えられました。これからは疲労困憊するまで続けるのではなく、年に数日を静寂の日と制定し魂の調整が出来ればと願います。

 

今年は、皆様に覚えて頂き祈られた事に深くお礼を申し上げます。

 

 来年も、仙台宣教センターのことを宜しくお願い致します。

 

 

 

中澤竜生・佳子