聖なる方に倣って

   「むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。」
第1ペテロ1章15節
特に「あなた方を召された聖なる方に倣い」と書いています。「聖」という「格」を持たれる方は、イエス様であり、聖霊を指します。この方に倣う事を勧めています。
「倣う」とは何を指しているのでしょう。
1、聖書
2、福音(福音書)
3、クリスチャンの証
それと、ユダヤ人には律法があり、異邦人には良心(徳)が心があります。
『パウロは、最高法院の人々を見つめて言った。「兄弟たち。私は今日まで、あくまでも健全な良心にしたがって、神の前に生きてきました。」』使徒23章1節
普段より人間は「神様に喜ばれる」機能を持ち合わせているのです。
ですが罪という(第一原因)に縛られますと、自分が優先され良心が鈍くなり、神の意志に背く事をするのです。
サウロは律法が正しいと信じました。その律法の教えは「神を汚す事はしてはいけない。」と言います。そして「汚さない」と説明する背後には、律法学者の権威に従えでした。
サウロは「律法」によって女も子どもたちも捉え容赦無く裁きます。サウロには「神の愛」が見えなかったのです。
   私たちが気をつける事は「神の愛」を知らない良心です。私たちは「心」のアンテナを通して神様の「聖」<きよさ>を知る事ができるはずです。サウロはこの後「心ない律法」から、神様の愛を知った良心へと福音を重ねて学びます。特に「福音を形あるもの」となるように「聖霊」(聖)<きよさ>が諭すようにみじかで働かれるのです。
その事を、ペテロによって証明されます。
『アイネヤとタビタの事。』
   ペテロ、いえ人間の力では「あり得ない」事、「奇跡」が起こります。
   皆様はこの場面をどのように考えますか? この出来事により、サウロによって、聖徒の信仰継続は難しくなっていましたが「主に立ち返る」きっかけが与えられました。(35節)
   「タビタ」の場合は、タビタに恩恵を受けた人がその死を悼み、丁度近くにいたペテロを呼び不条理な「死」に訴えました。その願いを叶えるように、ペテロは聖なる方に向けて祈ります。その結果、私たちが暮らす日常とはかけ離れた「よみがえり」の奇跡が起きます。
   ペテロは「聖なる方」つまり「聖霊」をよく理解していたと言えます。この箇所の疑問とは「癒し」と「よみがえり」の奇跡です。このような奇跡は常に起きていたのか? 私たちの身近で「亡くなられる」事が多々あります。その様な中でもっとも身近な人は「生き返ってほしい」と切に願うものです。ですが現実を知る私たちは何処かで「あり得ない」と思い喪に服するのです。
   使徒時代は、医療の発達した時代ではありませんでした。中でも子どもの「死」は多く、天を見上げる事は常であったでしょう。この自然を超越した奇跡とは「使徒」である事の象徴なのか?   あるいは福音を伝える為の出来事なのか?   無力な私たちは考えます。その後のタビタは永遠に生きたのではなく、聖書には書かれていませんが天に召された事だけは事実です。聖書に記されている「奇跡」の意味とは、信仰(聖なる方と共にいる)を持つものの願いが「聞き入れられる」というメッセージが込められたと推察できるのではないでしょうか。
    「聖霊」は人の思いを知り。「聖なる者に倣い」「聖霊」と交わる者に神の意図が伝えられると考察するのです。
   聖なる方の意図は計り知れない。人が知る事の範囲をはるかに超えている。
   ペテロがヨッパに宿泊した時の「幻」の出来事でした。
   「幻」の啓示は、ペテロにとって検討もつかない出来事でした。ユダヤ人の習慣性から突いてくるメッセージは汚れていない食べ物と汚れた食べ物からでした。つまりユダヤ人にとって変えようがない文化であり、生活習慣性となる聖書(旧約)は律法に問うものでした。レビ11章   
聖なる方からしか出せない題です。しかも同じ幻が3回です。
ペテロはこの3回で捉え方が変わります。
「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。・・・・このイエス・キリストはすべての人の主です。」34-36節