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聖書の話し

   前回(2018年2月4日)のテーマは「主の御心を求めて」でした。御心を求める上で大切なのは「まことの礼拝」であり、2つの姿勢を取り上げました。① 心に祭壇を築き、日々主の御前に出て礼拝を捧げるです。② 1人ではなく、「集まって」礼拝を「聖日」に捧げる事です。
先週の問いによる応答は次の通りです。
A、施設の「教会」に繋がらなければ「礼拝」は出来ないのでしょうか?
「集まって」の問いに施設は必要だと分かります。礼拝は複数で催すものです。使徒の時代は「家の教会」でした。
B、「まことの礼拝」「信仰による成長」は、「躓き」によって出来なくなるのでしょうか?
「はい」その通りです。躓きor疑いは、自分本位の決断が優先となります。そのような状態で「まことの礼拝」を捧げる事はできません。それと「聖書」のみことばが優先されないので、たましいを養うこともできません。「恐れ」「不安」「疑い」「怒り」「つぶやき」「高慢」などは「躓く」事の原因ともなるのです。
   私たちは「躓く」事のない人生を送りたいものです。「後悔」や「失敗」があっても、イエス様を信じ「改めて」前に進む事があれば大きく恵みを得ます。それこそ、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。」マルコ5:34 となります。
「躓き」は折角の恵みを「無」にする思いです。私たちは出来事を見て「躓く」必要はありません。例えそれが私に向けられても「躓く」必要は無いのです。何故なら、それはイエス様と私の関係だからです。人との関係で「躓く」事が生じたならば「あわれみ」を抱くように工夫をすべきです。それが聖書の教えです。
つまり「憐れむ」「ゆるす」「悔い改める」「互いに」を自分のたましいに言い聞かせ、主が慕う心に向ける事です。それが礼拝に必要な姿勢と繋がります。
   センターは、礼拝に向く人間性を養う場でありたいと願います。養われ続ける生き方が「宣証」と言われる伝道法であって、人が生きていく過程で必要な捉え方となります。