クリスマスシーズンが続いています。
リース作りもあれば、クリスマス会を催すなど色々です。
ともあれ、今までお見えになる事がなかった方々が参加して下さるのは嬉しい事です。
当所はその為の準備を、有志で行ってくれました。
ですが楽しみも忘れはしません。
ミニリースを作ってみました。

中澤ファミリーコンサート

イエス福音教団 宮城教会で、第五回 中澤ファミリーコンサートが開催した。
今回のテーマは「信仰」です。
信仰についてのお話をしました。
家族の一人、恵太がカナダにいて参加できないため、
救世軍の粟飯原夫妻に協力を求め、快く承諾くださり実現しました。
実際には、トランペットやタンバリン、角笛と贅沢な時間となりました。
久しぶりに会った皆様も、信仰についてのお話しを真剣に聞いて下さり、
日頃に大原先生や教会スタッフさんが丁寧に交流をもって下さっていることだと思えました。
また、OM宣教師の皆様もご協力下さり、
充実した接待や、会場雰囲気が暖かくなったことも、今回の魅力であろうと思いました。
次回は、、、 家族の集まりが難しい中なので検討中です。前向きではあります。
祈りながら。
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綾瀬東部教会 中高生キャンプ

今日は飯田市からの訪問。

3月21日(水) みぞれ降る午後、長野県飯田市から岩崎豊稔氏とひとみさんご夫婦、娘さんの優香さんが当所に来て下さった。
少しの時間ですが、交流の時間を持つことができました。
同じ教団の誼として、何かホッとするひと時でした。
優香さんは、仙台で仕事との事、またお目にかかれると良いなぁと思いつつ
秋保に旅たつ家族を見送りました。

祝福式

中学校時代からよく知る「姉妹」。
難しい病と向き合いながら、明るく、社会に貢献しつつ過ごしている。
姉妹の日常に欠かせないのが、
イエス・キリスト様です。
どんな時にでも、向き合う姿の背景には「信じる」と「祈る」がある。
それに加えて、「一人ではない」という強力な相手が備えられた。
姉妹は仙台市から離れ、埼玉県に移り住む。
今回は「送り出し」ともなり、
私たちとしては寂しいのですが。
「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」創世記2:24
ふたりを心から祝福し、送り出しました。
姉妹は、家族に大きな遺産(信仰)を残しました。
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聖なる方に倣って

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聖餐式礼拝

久し振りに山形から義道夫婦が孫(叶恵)と一緒に帰宅した。
山形で働く様子などの話がされ参加者と共に喜んだ。
礼拝では聖餐式もあり、共にイエス様の御業を喜び、感謝した。
その後は「いこいのみぎわ教会」にも挨拶に行き、
共に喜ばれたとの事でした。
案の定、その夜は「夜泣き」でしたが、
多くの方と顔を合わせる事ができたのは幸いでした。
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聖書の話し2

   さて、来年の継続で、本日(2018年2月11日)から「使徒の働き」を通して当時のクリスチャン像を考察しようと思います。
特にサウロ、後のパウロの動向を考察することは、「クリスチャン」である事の大きな導きとなります。
そこで使徒の働き9章から始めます。
この箇所は、クリスチャンを迫害するサウロがダマスコの途上突如として強い光を受け倒れます。サウロの証言はイエスを見た。その声を聞いたでした。4、5節
   サウロは以前の様ではありませんでした。20節
「イエスは神の子であると宣べ伝え始めた」
サウロを知る人々もその変化に戸惑うのです。21節
   この変化をどう捉えるべきでしょうか。
   迫害する熱心さが、伝道する熱心に変わった事だけは間違いがないようです。サウロはユダヤ教の律法学者としても評価が高い人でした。イエスに出会うまで、ユダヤ教の教えや律法を学ぶだけでは、イエスが神の子であるとは気付かなかったのでしょうか?
イエスの弟子たちの声に耳を傾けていなかったのでしょうか?
いや、話は聞いていたと思います。理解をしようとは思わなかった。あるいは、今までの教えや学びは、イエスに繋がるものではなかったのかも知れません。
当時の聖書(旧約)から発掘するのは難しく、イエスを知る(福音)を知る事で聖書そのものが分かる(解き明かし)のがサウロを考察して発見できます。
   また、それだけでは身につくことがありません。サウロの変化には「天からの光」が重要だとも思います。これは特別な啓示であって、弟子たちに下った聖霊降臨と同じと考えられます。啓示がなければ、サウロに変化は無かったと考察します。私たちにも言える事は、知恵と知識だけでは変化はない。抽象的に言われている「火」「光」などによる「聖」(ホーリネス)の象徴が大きく作用している事に違いない。この出来事は決して特別なのではなく、昔から多くのクリスチャンが体験し、変化したものとして証がなされ、社会の闇に証(貢献)をしてきました。私たちは社会の仕組みに貢献するのみではなく、御国の貢献者となれるように努めます。その為には「聖」が欠かせないと考察するのです。
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聖書の話し

   前回(2018年2月4日)のテーマは「主の御心を求めて」でした。御心を求める上で大切なのは「まことの礼拝」であり、2つの姿勢を取り上げました。① 心に祭壇を築き、日々主の御前に出て礼拝を捧げるです。② 1人ではなく、「集まって」礼拝を「聖日」に捧げる事です。
先週の問いによる応答は次の通りです。
A、施設の「教会」に繋がらなければ「礼拝」は出来ないのでしょうか?
「集まって」の問いに施設は必要だと分かります。礼拝は複数で催すものです。使徒の時代は「家の教会」でした。
B、「まことの礼拝」「信仰による成長」は、「躓き」によって出来なくなるのでしょうか?
「はい」その通りです。躓きor疑いは、自分本位の決断が優先となります。そのような状態で「まことの礼拝」を捧げる事はできません。それと「聖書」のみことばが優先されないので、たましいを養うこともできません。「恐れ」「不安」「疑い」「怒り」「つぶやき」「高慢」などは「躓く」事の原因ともなるのです。
   私たちは「躓く」事のない人生を送りたいものです。「後悔」や「失敗」があっても、イエス様を信じ「改めて」前に進む事があれば大きく恵みを得ます。それこそ、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。」マルコ5:34 となります。
「躓き」は折角の恵みを「無」にする思いです。私たちは出来事を見て「躓く」必要はありません。例えそれが私に向けられても「躓く」必要は無いのです。何故なら、それはイエス様と私の関係だからです。人との関係で「躓く」事が生じたならば「あわれみ」を抱くように工夫をすべきです。それが聖書の教えです。
つまり「憐れむ」「ゆるす」「悔い改める」「互いに」を自分のたましいに言い聞かせ、主が慕う心に向ける事です。それが礼拝に必要な姿勢と繋がります。
   センターは、礼拝に向く人間性を養う場でありたいと願います。養われ続ける生き方が「宣証」と言われる伝道法であって、人が生きていく過程で必要な捉え方となります。
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センター方針

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2018年度 センターの方針
日曜日 兄姉と共に今年の方針を確認した。
センター資料 2018.pdf
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