Praying through the Word of Go 2

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地に降ったマナ

2025/09/06

 

"イスラエルの子らはこれを見て、「これは何だろう」と言い合った。それが何なのかを知らなかったからであった。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として下さったパンだ。

主が命じられたことはこうだ。『自分の食べる分に応じて、一人当たり一オメルずつ、それを集めよ。自分の天幕にいる人数に応じて、それを取れ。』」

そこで、イスラエルの子らはそのとおりにした。ある者はたくさん、ある者は少しだけ集めた。

彼らが、何オメルあるかそれを量ってみると、たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人にも足りないことはなかった。自分が食べる分に応じて集めたのである。"

出エジプト記 16章15~18節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

解説

荒野で民は「食べ物がない」と不平を言い、モーセとアロンを責めました。モーセは「その不平は実は主に対してなのだ」と告げます。人への不満の背後には、神さまへの不信が隠れているのです。しかし驚くのは、そのような不平すらも主は「聞かれ」、憐れみによって肉とパンを与えられたことです。神さまは人の弱さを退けるのでなく、必要を知って備えてくださるお方です。やがて朝、地に降ったマナを見て人々は「これは何だろう?」(ヘブル語で「マナ」)と驚きました。彼らはその正体を知らなかったのです。けれども、それこそが神からのパンでした。しかも量ってみると、「多く集めた者にも余らず、少なく集めた者にも足りなかった」とあります。

ここには大切な信仰の教訓があります。1,神さまの賜物は人間の欲望や不安による過不足ではなく、ちょうど必要な分が与えられる。2,それは「日ごとのパン」として与えられるものであり、先取りして蓄えることではなく、日々の信頼の中で受け取るもの。3,そして後に、イエス・キリストが「わたしがいのちのパンである」と語られたように(ヨハネ6:35)、マナはキリストの象徴であり、神さまの完全な養いを指し示していました。

 

祈り文

天の父なる神さま。

私たちは困難に出会うと、つい不平を口にしてしまいます。人や環境に文句を言いながら、実はあなたへの信頼を欠いていることを覚えます。どうかその罪を赦してください。

けれども、あなたは不平を言う民にさえ、マナを備えてくださいました。多くても余らず、少なくても足りない、不思議な恵み。ちょうど必要な分を日ごとに与えてくださる神に感謝します。

主よ、私たちが明日の不安に心を縛られることなく、「今日」という一日に与えられる恵みに感謝して歩めますように。イエスさまこそまことのいのちのパンです。どうか私たちの心と魂をあなたご自身で養ってください。

救い主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

アーメン。


不平を、主が聞かれた

2025/09/05

 

"モーセはまた言った。「主は夕方にはあなたがたに食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださる。それはあなたがたが主に対してこぼした不平を、主が聞かれたからだ。いったい私たちが何だというのか。あなたがたの不平は、この私たちに対してではなく、主に対してなのだ。」"

出エジプト記 16章8節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

解説

イスラエルの民は、食べ物がないことに不平を言い続けました。表面的にはモーセやアロンに向けられた不満でしたが、モーセはここではっきりと「あなたがたの不平は、主に対してなのだ」と告げます。

これは、私たちの心に突き刺さる言葉です。私たちが環境や人に対して不満を抱くとき、その根本は「神さまがなぜ備えてくださらないのか」という神さまへの不信に繋がっています。

しかし同時に、この箇所は大きな慰めも示しています。主は、不平を言う民の声を「聞かれた」とあるのです。つまり、神さまは怒りをもって退けるのでなく、不平すらも祈りのように受け止め、必要を満たす方法を用意してくださる方なのです。

ここには「恵みの神」の姿があります。信仰が弱く、不満を漏らす者にさえ、神さまは肉とパンを備えてくださいました。やがてそれは、イエス・キリストという「まことのいのちのパン」に結びついていきます。

 

祈り文

憐れみ深い父なる神さま。

私たちはしばしば環境や人に対して不平を言い、心に不満を抱いてしまいます。しかしそれは、実はあなたへの信頼を欠いた歩みであることを思い知らされます。どうかその罪を赦してください。

 

それでもあなたは、民の不平をも聞き入れ、必要を備えてくださいました。なんという恵みでしょうか。私たちの弱さと愚かさを知りながら、それでも愛をもって受け止め、養ってくださるあなたに感謝します。

 

主よ、どうか不満ではなく感謝を口にし、疑いではなく信頼をもって歩めるように導いてください。イエス・キリストこそがまことの「いのちのパン」であることを覚え、その方に満たされながら日々を歩んでいけますように。

 

救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。


神さまへの信頼を学ぶ学校

2025/09/04

 

"そのとき、イスラエルの全会衆は、この荒野でモーセとアロンに向かって不平を言った。

イスラエルの子らは彼らに言った。「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に連れ出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」

主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたがたのために天からパンを降らせる。民は外に出て行って、毎日、その日の分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである。"

出エジプト記 16章2~4節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

解説

イスラエルの民は、エジプトを出てわずかのちに「食べ物がない」と不平を言い出しました。「エジプトで肉鍋のそばにいた方がよかった」とまで言い、神さまの救いの御業を忘れてしまったのです。

ここには、私たちの人間の姿が映し出されています。過去の束縛や不自由でさえも、「あのときの方がよかった」と振り返り、神さまに不満を抱く弱さです。

しかし主は、その不信仰にすぐに怒られるのではなく、「天からのパン(マナ)」を備えてくださいました。ただし条件がありました。

1,「毎日、その日の分を集める」こと。2,これは神さまに従順に歩むかどうかを試すため。

ここに示されているのは、「日ごとの信仰」です。今日必要なものを今日与えてくださる神さまを信じて歩むこと。その信仰を通して、神さまはご自身が生けるパン、すなわち後に来られるキリストを指し示されました(ヨハネ6:35)。

つまり、この荒野の試練は「神さまへの信頼を学ぶ学校」でした。

 

 

祈り文

いのちの主なる神さま。

イスラエルの民が荒野で食べ物に不安を覚え、不平を言ったように、私たちも日々の生活の中で、心配や不安を抱え、あなたを疑ってしまうことがあります。その罪を赦してください。

主よ、あなたは「天からのパン」を降らせ、民を養ってくださいました。私たちにもまた、日ごとに必要な糧を備えてくださることを信じます。どうか「今日」という日の恵みに感謝し、明日の不安に心を奪われることなく歩む信仰をお与えください。

イエスさま、あなたこそ「いのちのパン」です。あなたを信じ、あなたに養われ、日ごとの歩みをあなたに委ねて進んでいけますように。

救い主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

アーメン。


人の不平と弱さ

2025/09/03

 

"民はモーセに向かって「われわれは何を飲んだらよいのか」と不平を言った。

モーセが主に叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。彼がそれを水の中に投げ込むと、水は甘くなった。主はそこで彼に掟と定めを授け、そこで彼を試み、

そして言われた。「もし、あなたの神、主の声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたを癒やす者だからである。」"

出エジプト記 15章24~26節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

解説

イスラエルの民が紅海を渡った後、荒野を三日間も水が見つからないまま歩きました。ようやく見つけた水は「マラ」と呼ばれる苦い水で、とても飲めませんでした。人々はモーセに不平を言いましたが、モーセは主に叫び求めます。すると主は一本の木を示され、それを水に投げ入れると水が甘くなり、民は飲むことができました。ここで重要なのは、1.人の不平と弱さ 困難の中で、人はすぐに不平を言ってしまう。2.モーセの祈り モーセは不平を言わず、神さまに叫び求めた。3.主の示し 主は一本の木を通して解決を与えられた。

「木」が水を甘くしたことは、やがてイエス・キリストの十字架を思わせます。十字架の木こそが、私たちの人生の「苦い水」を「甘い恵み」に変える力を持っています。

さらに神さまはここで「わたしは主、あなたを癒やす者(ヤハウェ・ラファ)」とご自身を啓示されました。これは神さまの御性質のひとつで、肉体の癒やしだけでなく、心や魂をも癒やす神さまであることを示しています。従順と信頼によって生きるとき、神さまは守りと癒しを約束してくださるのです。

 

祈り文

恵み深い天の父なる神さま。

荒野で不平を口にしたイスラエルの民と同じように、私たちも困難や不足の中で、すぐに不安や不満を抱えてしまいます。その弱さをお赦しください。

しかし主よ、モーセがあなたに叫んだように、私たちもあなたに祈ります。どうか私たちの前にある「苦い水」を、十字架の恵みによって「甘い水」に変えてください。

主よ、あなたは「わたしは主、あなたを癒やす者」と約束してくださいました。私たちの心の傷を癒やし、体の病を癒やし、そして魂に平安をお与えください。

日々あなたの声に聞き従い、あなたの掟を守り歩むことができますように。

救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。


この方を私はあがめる。

2025/09/02

 

"そのとき、モーセとイスラエルの子らは、主に向かってこの歌を歌った。彼らはこう言った。「主に向かって私は歌おう。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。

主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。この方こそ、私の神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。

主はいくさびと。その御名は主。"

出エジプト記 15章1~3節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

解説

紅海を渡りきり、エジプト軍が滅ぼされた後、人々は勝利の歌を主に向かって歌いました。

「主に向かって私は歌おう。主はご威光を極みまで現された。」これは単なる勝利の歓喜ではなく、救いを成し遂げられた神への礼拝の応答です。

ここで神は「いくさびと(戦士)」として讃えられます。つまり、神は単なる守り手ではなく、積極的に民を救い出すために戦われる方であるという告白です。また、「主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救い」という言葉は、信仰告白の核心を表しています。

 

祈り文

戦いに勝利をもたらす主よ、

あなたは絶望の中で私たちを守り、立ち向かい、救い出してくださる方です。

恐れに囚われる時、どうか私の心を静め、あなたの力を信じて待つ者とならせてください。

そして、あなたが勝利を与えられたときには、モーセとイスラエルの民のように、喜びをもって賛美をささげる者とならせてください。

あなたは私の力、私の救い、私の歌です。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。


主があなたがたのために戦われるのだ

2025/09/01

 

"主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」"

出エジプト記 14章14節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

解説

出エジプト記14章14節は、紅海の岸辺で恐れに震えるイスラエルの民に向けて、モーセが告げた力強い言葉です。

エジプト軍が迫り、前には海が広がり、逃げ場のない状況の中で、人々は不安と絶望に陥っていました。その時、モーセは「主があなたがたのために戦われるのだ」と宣言します。

この言葉は、信仰の核心を突いています。人間の力ではどうにもならない壁に直面するとき、私たちは焦り、動き回り、声を荒げたくなるものです。しかし神は、「あなたがたは、ただ黙っていなさい」と命じられました。それは、消極的に手をこまねいていることではなく、神の力を信じて静まり、委ねる姿勢を意味します。

ここから学べるのは、信仰とは「自分の力を尽くすこと」にとどまらず、「自分を超えた神の力にゆだねて静まること」でもあるということです。神が戦われるとき、勝利は必ず与えられます。

 

 

祈り文

戦ってくださる主よ、

あなたは絶望の中にある私たちを見捨てず、道を開いてくださるお方です。

恐れや不安に押しつぶされそうな時、どうか静まり、あなたの御力に信頼する心を与えてください。

自分の力でどうにもならない壁にぶつかったときこそ、あなたが戦ってくださると信じ、ゆだねる信仰を持たせてください。

あなたの勝利を待ち望みつつ歩むことができますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

 


完全な守り

2025/08/31

 

"彼らはスコテを旅立ち、荒野の端にあるエタムで宿営した。

主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。

昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。"

出エジプト記 13章20~22節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

解説

エジプトを出たイスラエルの民は、神ご自身が「雲の柱」と「火の柱」となって共に歩まれました。•雲の柱(昼の導き) 昼の強い太陽の下で、雲は陰を作り、民を守りつつ進む道を示しました。これは「神が共にいて、休みと方向を与えられる」ことの象徴です。•火の柱(夜の導き) 夜の暗闇の中で火は道を照らし、恐れを取り除きました。これは「神が光となり、恐れから守り、希望を与える」ことを示しています。•決して離れない臨在 「昼も夜も、柱は民の前から離れることはなかった」とあります。神は一時的にではなく、常に共にいて導いてくださる方です。

この御言葉は、キリストにおける神の臨在を思い起こさせます。イエスは「わたしは世の光である」(ヨハネ8:12)と言われ、聖霊によって今も私たちを昼も夜も導いてくださっています。

 

祈り文

導きの主よ。

あなたがイスラエルの民に、昼は雲の柱、夜は火の柱として共に歩まれたように、今も私たちの人生を導いてくださることを感謝します。

昼の試練の暑さの中でも、夜の暗闇の不安の中でも、あなたが共におられることを信じ、恐れずに進んで行けますように。

どうか私の歩みが常にあなたの光に照らされ、迷わずに進むことができますように。

主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

アーメン。

 


主のおしえがあなたの口に

2025/08/30

 

"これをあなたの手の上のしるしとし、あなたの額の上の記念として、主のおしえがあなたの口にあるようにしなさい。力強い御手で、主があなたをエジプトから導き出されたからである。"

出エジプト記 13章9節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

解説

この御言葉は、出エジプトの救いを日々心に刻むことを教えています。•「手の上のしるし」 行いと生活の中に、神の救いを覚えて生きることを意味します。私たちの手の働きが、神に従うしるしとなるように。• 「額の上の記念」 思いと心に、いつも神の御業を刻むことを示します。思考や判断の中心に、神の教えを置くことが求められています。•「口にあるように」 神の救いの言葉を絶えず語り、次世代に伝える使命を表しています。

イスラエルの民は、神の「力強い御手」によってエジプトから導き出されました。同じように、私たちもキリストの十字架によって罪と死から救い出されました。その恵みを忘れず、生活の中で証ししていくことが大切です。

 

祈り文

恵み深い主よ。

あなたの力強い御手によって、イスラエルをエジプトから導き出されたように、私たちも罪と死から救い出してくださったことを感謝します。

どうかあなたの御言葉を、私の手の働きに、思いの中心に、そして口の言葉に満たしてください。

日々の歩みがあなたのしるしとなり、私の人生を通して御名があがめられますように。

主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

アーメン。

 


種なしパンを食べる

2025/08/29

 

"七日間、あなたは種なしパンを食べる。七日目は主への祭りである。

七日間、種なしパンを食べなさい。あなたのところに、種入りのパンがあってはならない。あなたの土地のどこにおいても、あなたのところにパン種があってはならない。

その日、あなたは自分の息子に告げなさい。『このことは、私がエジプトから出て来たときに、主が私にしてくださったことによるのだ。』"

出エジプト記 13章6~8節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

解説

この箇所は「種なしパンの祭り」の掟を語っています。過越の出来事の直後、イスラエルの民は七日間種なしパンを食べるよう命じられました。1. 種なしパンの意味 種は発酵を象徴し、古いもの・罪・不純なものの象徴ともされます。急いでエジプトを出た時にパンを発酵させる時間がなかったことを思い起こさせると同時に、神の前に清められた新しい歩みを意味しています。2.祭りとしての記念 七日間にわたりこの掟を守ることは、イスラエルにとって救いの出来事を忘れずに記念する大切な行いでした。3.次世代への継承 「自分の息子に告げなさい」とあるように、救いの出来事は体験した世代で終わらせてはならず、必ず子どもたちに語り伝えるべきものでした。これは信仰の継承の大切さを教えています。

この掟は、新約において「古いパン種を取り除き、新しいパン種のない者として歩む」ことを指し示しています(Ⅰコリント5:7–8参照)。つまり、キリストにあって罪から清められ、新しい人生を歩むという意味を持っています。

 

祈り文

天の父なる神さま。

あなたがイスラエルをエジプトから救い出し、その恵みを記念するように命じてくださったことを感謝します。

どうか私たちも、古い罪を取り除き、キリストにある新しい歩みを大切にし続けることができますように。

また、この救いの恵みを子どもたちや次の世代に語り伝える者とならせてください。

主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

アーメン。

 


ひざまずいて礼拝した

2025/08/28

 

"あなたがたはこう答えなさい。『それは主の過越のいけにえだ。主がエジプトを打たれたとき、主はエジプトにいたイスラエルの子らの家を過ぎ越して、私たちの家々を救ってくださったのだ。』」すると民はひざまずいて礼拝した。

こうしてイスラエルの子らは行って、それを行った。主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。"

出エジプト記 12章27~28節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

解説

この御言葉は「過越の祭り」の意味を子どもたちに語り伝える場面です。イスラエルの民は「これは主の過越のいけにえだ」と答えるよう命じられました。•過越の意味を語り継ぐこと 神の救いの出来事は、次の世代に伝えることによって生き続けます。信仰は受け継がれるものです。•礼拝の姿勢 民はこの言葉を聞いて「ひざまずいて礼拝した」とあります。救いを思い起こした時、人々は自然と感謝と礼拝に導かれました。•従順の信仰 イスラエルの子らは「主が命じられたとおりに行った」とあります。信仰は知識だけでなく、実際の従順な行いによって表されるものです。この出来事は、やがてイエス・キリストの十字架と復活による救いへとつながり、私たちも「主が救ってくださった」と証しする者とされます。

 

祈り文

救い主なる天のお父さま

あなたがイスラエルの家々を守り、過越のしるしによって救ってくださったことを覚えて感謝します。

どうか私たちも、この救いの意味を世代から世代へと語り継ぎ、感謝をもって礼拝する者とならせてください。

そして日々、あなたの御言葉に従順に歩む力をお与えください。

主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

アーメン。

 


血による守り

2025/08/27

 

"ヒソプの束を一つ取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血を鴨居と二本の門柱に塗り付けなさい。あなたがたは、朝までだれ一人、自分の家の戸口から出てはならない。

主はエジプトを打つために行き巡られる。しかし、鴨居と二本の門柱にある血を見たら、主はその戸口を過ぎ越して、滅ぼす者があなたがたの家に入って打つことのないようにされる。

あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のための掟として永遠に守りなさい。"

出エジプト記 12章22~24節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

解説

この御言葉は、イスラエルの民がエジプトを脱出する前夜に与えられた「過越の掟」を示しています。主は滅ぼす者を遣わしてエジプトを打たれましたが、イスラエルの家には子羊の血が塗られていたため、主はその家を「過ぎ越された」のです。

ここには大切な三つの意味があります。1.血による守り子羊の血が家を守る「しるし」となりました。これは、新約の時代にイエス・キリストの血が私たちを罪と死から守ることを象徴しています。2.とどまる信仰「朝まで戸口から出てはならない」という言葉は、神の守りの中にとどまる信仰を示しています。私たちも、自分の力や知恵に頼らず、主の救いにとどまることが求められています。3.永遠に守るべき掟この出来事はイスラエルにとって「記念」となり、代々にわたって語り継がれました。私たちもまた、キリストの十字架を記念し、感謝と従順の歩みを続けることが大切です。

この過越のしるしは、イエス・キリストにおいて完成しました。私たちの心の鴨居にキリストの血が塗られているとき、滅びは私たちを過ぎ越し、永遠の命にあずかることができるのです。

 

 

祈り文

天の父なる神さま。

あなたがイスラエルの民を過越しの血によって守られたように、私たちもイエス・キリストの尊い血によって守られていることを感謝します。

自分の力に頼るのではなく、ただキリストの十字架により頼み、その救いの中にとどまることができますように。

心の鴨居に血が塗られている者として、恐れや不安ではなく、信仰と平安のうちに歩ませてください。

どうか、この救いの恵みを次の世代にも語り継ぎ、永遠にあなたの御業を記念する者とならせてください。

主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

アーメン。

 


なぜ状況がこんなに硬直しているのか

2025/08/26

 

 

"わたしはファラオの心を頑なにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で数多く行う。"

出エジプト記 7章3節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

解説

出エジプト記7章3節は、神さまがモーセに語られた厳粛な宣言です。イスラエルの解放は一度で簡単に実現するものではなく、神さまご自身のしるしと不思議を通して進められる計画でした。

1. ファラオの心を頑なにする神さま

 「頑なにする」という表現は難しい部分ですが、これはファラオの意思が完全に奪われたという意味ではありません。ファラオの心の高慢と反抗を神さまがそのまま強め、御計画を進められるのです。つまり、ファラオの罪深い性質を神さまが用いて、御自分の栄光を現されました。

2. しるしと不思議の目的

 神さまは「数多くのしるしと不思議」を行うと語られました。それは単なる奇跡の披露ではなく、エジプトの偶像や王権にまさる「真の神さまの力」を示すものでした。出エジプトの奇跡は、イスラエルだけでなく諸国民にも「神さまこそ主である」と知らせる証しとなりました。

3. 神さまの主権

 人間の権力や支配の背後で、歴史を導かれるのは神さまです。ファラオの心が頑なであっても、神さまの計画は阻まれません。むしろ、その頑なさを通して神さまの力がいっそう鮮明に現れます。

 

適用

私たちの人生にも、「なぜ状況がこんなに硬直しているのか」「なぜ道が開かれないのか」と思うときがあります。しかし、その中にも神さまの御計画があります。人の心が頑なであっても、環境が動かなくても、神さまはご自身のしるしと不思議をもって働かれます。そして、その過程を通して私たちに「神さまは生きておられる」と教えられるのです。

 

 

祈り文

主なる神さま。

あなたはファラオの心を頑なにされ、多くのしるしと不思議を行い、あなたこそ唯一の神であることを現されました。私たちも、ときに動かない現実や頑なな心に直面しますが、そこにこそあなたの御力が示されることを信じます。

どうか、私たちが人の硬さや状況の壁に恐れず、あなたのしるしと不思議を待ち望む信仰を持てますように。すべてのことを通して、あなたの栄光が現されますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。


わたしは主である

2025/08/25

 

"わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地にあなたがたを連れて行き、そこをあなたがたの所有地として与える。わたしは主である。』」"

出エジプト記 6章8節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

解説

出エジプト記6章8節は、神さまがモーセを通してイスラエルの民に語られた約束の言葉です。エジプトでの苦しい奴隷状態のただ中で、神さまはご自身の計画を再び宣言されました。

1. アブラハム、イサク、ヤコブへの約束の継続

 神さまは「契約の神さま」として、ご自身の民を忘れることがありません。先祖たちに誓った約束を覚えておられ、その約束を必ず成就されます。たとえ民が不安や絶望にある時でも、神さまの約束は揺らぎません。

2. 神さまの主体性

 「わたしは連れて行き、与える」と繰り返されるように、すべては神さまの主導によることが強調されています。イスラエルの努力や功績ではなく、神さまの恵みによって救いと所有地が与えられるのです。

3. 「わたしは神である」

 この自己宣言は、神さまご自身の真実に基づいた保証です。人間の状況や感情がどうであれ、神さまが神さまであるがゆえに、その約束は必ず実現します。

 

 

適用

私たちも「神さまの約束が遠い」と感じることがあります。しかし、神さまは何世代にもわたってご自身の契約を守られたように、私たちに与えた救いと希望をも必ず成就してくださいます。クリスチャンにとっての最終的な「所有地」は天の御国です。現実の試練の中でも、神さまの約束は揺るがない希望として私たちを支えます。

 

 

祈り文

真実な契約の神さま。

あなたはアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた約束を忘れず、イスラエルの民を導かれました。そのように、私たちへの救いと永遠の御国の約束も必ず成就してくださることを感謝します。

どうか、困難や不安の中にあっても「わたしは神である」という御言葉に信頼し続けることができますように。あなたの約束は必ず果たされると信じ、日々を歩ませてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

 


神に召されても「契約のしるし」や「信仰の従順」をなおざりにすると

2025/08/24

 

"さて、途中、一夜を明かす場所でのことだった。主はモーセに会い、彼を殺そうとされた。

そのとき、ツィポラは火打石を取って、自分の息子の包皮を切り取り、モーセの両足に付けて言った。「まことに、あなたは私には血の花婿です。」

すると、主はモーセを放された。彼女はそのとき、割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。"

出エジプト記 4章24~26節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

解説

出エジプト記4章24~26節は、出エジプト物語の中でも非常に難解な箇所です。神から召され、エジプトに向かう途中で突然「主はモーセを殺そうとされた」と記されます。流れの中では唐突に思える出来事ですが、ここには重要な霊的な意味が含まれています。

1. 神の聖さと契約のしるし

 モーセはイスラエルを導き出すリーダーとして召されました。しかし、神がアブラハムの子孫に与えた「割礼の契約」(創世記17章)を息子に施していなかったようです。神の契約のしるしを無視したまま、民を導くことはできません。神はモーセに徹底して「契約に基づく聖さ」を求められたのです。

2. ツィポラの行動

 危機的状況で動いたのはモーセの妻ツィポラでした。彼女は火打石で息子に割礼を施し、モーセの両足にその血を触れさせ、「血の花婿」と言いました。これは、モーセが神の怒りから解放されたことを象徴する行為です。妻の信仰的な行動が、モーセの命を救ったのです。

3. 血による救いの象徴

 「血の花婿」という言葉は、理解が難しいですが、神との関係において「血」が重要な意味を持つことを示しています。イスラエルは過越の小羊の血によって救われ、やがてキリストの十字架の血によって完全な贖いが与えられます。この箇所は、その大きな救いの流れを先取りする出来事ともいえるでしょう。

 

適用

モーセのように、神に召されても「契約のしるし」や「信仰の従順」をなおざりにすることがあります。神は私たちに、表面的な働きだけではなく、徹底した従順と聖さを求められます。

また、この場面ではツィポラが重要な役割を果たしました。神の働きは個人だけでなく、家族・伴侶・共同体を通して守られることもあるのです。

 

 

祈り文

聖なる神さま。

神さまがモーセに徹底した従順と契約のしるしを求められたことを覚えます。私たちも、ときに神さまの使命に立ちながら、心の中に妥協や不従順を抱えてしまう者です。どうか私たちの歩みを清め、神さまとの契約に生きる者としてください。

また、ツィポラが勇敢に信仰の行動をとったように、私たちも家族や仲間の信仰を通して守られ、助けられることを感謝します。どうか互いに支え合いながら、血によって贖われた者として、主に仕える歩みを続けさせてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。


必要な人や環境を備え

2025/08/23

 

 

"すると彼は言った。「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください。」

すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう言われた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼が雄弁であることをよく知っている。見よ、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぶだろう。

彼に語り、彼の口にことばを置け。わたしはあなたの口とともにあり、また彼の口とともにあって、あなたがたがなすべきことを教える。"

出エジプト記 4章13~15節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

解説

出エジプト記4章13〜15節は、モーセの召命物語のクライマックスの一つです。神は何度も励ましと保証を与えられたのに、モーセはなお「どうかほかの人を遣わしてください」と拒みました。この言葉は、モーセの恐れと消極性が頂点に達した瞬間です。

1. 神の怒りと憐れみ

 聖書は「主の怒りがモーセに向かって燃え上がり」と記します。神はモーセの弱さを忍耐深く受け止めてきましたが、最終的には彼の不信と拒みを叱責されました。それでも神はモーセを見捨てず、助けとなる兄アロンを備えられました。怒りと同時に、憐れみと具体的な解決を与えてくださる神の姿が表れています。

2. アロンの存在

 神は「彼は雄弁である」とアロンの賜物を指摘します。モーセの欠けを補うように、神はすでに備えを用意しておられました。ここには、神の働きが「一人だけの力」ではなく「共同体の協力」によってなされることが示されています。

3. 神の臨在の保証

 神は「わたしはあなたの口とともにあり、また彼の口とともにあって」と約束されました。つまり、モーセもアロンもただの人間ではなく、神の霊によって導かれ、語る者とされるのです。使命は「神と人との協力」によって果たされていきます。

 

適用

私たちも「自分には無理です」と神の召しを避けたくなるときがあります。しかし、神は私たちを見捨てず、必要な人や環境を備えてくださいます。大切なのは「自分の力」ではなく、「神の備えと共働き」に信頼することです。神は私たちの弱さを知り、それを補う人々を隣に置いてくださるのです。

 

祈り文

 

憐れみ深い父なる神さま。

モーセが弱さのあまりに「ほかの人を遣わしてください」と言ったとき、あなたは怒りながらも、彼を見捨てずにアロンを備えてくださいました。私たちも時に恐れ、あなたの使命から逃げたくなる者ですが、あなたは忍耐をもって助けを与えてくださいます。

どうか、私たちが自分の弱さにとらわれず、与えられた仲間や備えを信じ、あなたに従う勇気を持てますように。共に働く人を通してあなたが導かれることを信じ、あなたに栄光を帰する歩みをなさせてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

 


弱さを理由に逃げない

2025/08/22

 

"モーセは主に言った。「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」

主は彼に言われた。「人に口をつけたのはだれか。だれが口をきけなくし、耳をふさぎ、目を開け、また閉ざすのか。それは、わたし、主ではないか。

今、行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教える。」"

出エジプト記 4章10~12節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

解説

出エジプト記4章10〜12節は、モーセが神さまの召しに対してなおも躊躇し、弱さを訴える場面です。神さまは燃える柴の中でモーセを召し、使命を与えられましたが、モーセは自分の「ことばの弱さ」を理由に後ずさりしています。

1. モーセの弱さの自覚

 モーセは「私は口が重く、舌が重いのです」と言い訳しました。彼は人前で話すことに自信がなく、指導者としての能力不足を痛感していたのでしょう。この告白は、私たちが神さまに召されたときに抱く不安や「自分には無理だ」という思いと重なります。

2. 神さまの主権

 神さまは「人に口をつけたのはだれか」と語られました。つまり、私たちの能力や限界を造られたのも主ご自身であり、神さまはその弱さを知った上で召しておられるということです。人間の視点では「できない」ことが、神さまの力によって「できる」に変えられていきます。

3. 神さまの臨在の約束

 最後に神さまは「わたしがあなたの口とともにあって」と約束されました。モーセに必要なのは完璧な弁舌力ではなく、「神さまが共にいる」という確信でした。神さまの召しには、必ず神さまの同伴と助けが伴います。

 

適用

私たちも使命や働きに対して「自分には無理」「力不足だ」と感じることがあります。しかし神さまは、私たちの弱さを知った上で用いようとしてくださいます。大切なのは、自分の力の大小ではなく、「神さまが共にいる」ことを信じて一歩を踏み出すことです。弱さを理由に逃げるのではなく、弱さの中でこそ神の力が現れるのです(Ⅱコリント12:9)

 

祈り文

恵み深い天の父なる神さま。

あなたは弱さを覚えるモーセを召し、御自分の力によって用いられたことを感謝します。私たちも自分の足りなさや不安を言い訳にしがちですが、あなたは私たちの造り主であり、私たちを最もよくご存じの方です。

どうか、私たちが自分の力ではなく、あなたの臨在に信頼し、一歩を踏み出す勇気を与えてください。語るべきことを与え、必要な助けを備え、弱さの中にあなたの力を現してください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。


頑なな心

2025/08/21

 

"彼らはあなたの声に聞き従う。あなたはイスラエルの長老たちと一緒にエジプトの王のところに行き、彼にこう言え。『ヘブル人の神、主が私たちにお会いくださいました。今、どうか私たちに荒野へ三日の道のりを行かせ、私たちの神、主にいけにえを献げさせてください。』

しかし、エジプトの王は強いられなければあなたがたを行かせないことを、わたしはよく知っている。"

出エジプト記 3章18~19節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

解説

出エジプト記3章18〜19節は、神さまがモーセに使命を託す場面の一部です。モーセは燃える柴の中で神さまと出会い、イスラエルの民をエジプトから導き出すように召されました。その中で神さまは、ただ「出ていきなさい」と命じるだけではなく、エジプトの王(ファラオ)に正式に願い出るようにと具体的な手順を教えています。

1. イスラエルの長老たちと共に行く

 モーセ一人ではなく、民の指導者である長老たちと共に行くように命じられています。これは共同体全体の一致を示す行動であり、信仰の歩みが個人だけではなく共同体の中で支え合うものだと教えています。

2. 神さまの名による権威

 彼らが語るべき言葉は「ヘブル人の神さま、主が私たちにお会いくださいました」というものです。これは自分の思いや願望ではなく、神さまの御名と臨在によって事を進めることを意味します。

3. 犠牲をささげるために出る

 「三日の道のりを行かせてください」という表現は、単なる旅ではなく、神さまへの礼拝といけにえのためであることを示しています。つまり、出エジプトの最初の目的は「自由」そのものではなく、「神さまを礼拝する自由」でした。

4. 神さまの予告ファラオの頑なさ

 しかし神さまは、ファラオがすぐに許すことはないと明言されます。「強いられなければ」動かないと知っているのです。ここには人間の権力の限界と、神さまの力によって歴史が動く必然性が示されています。出エジプトの出来事は偶然ではなく、神さまの御業の舞台設定だったのです。

 

適用

私たちの歩みにおいても、神さまに従うとき、必ずしもすぐに道が開かれるとは限りません。むしろ抵抗や妨げがあることを聖書は最初から示しています。しかし、それは神さまのご計画の一部であり、やがて神さまの御力によって突破口が開かれるのです。大切なのは、私たちが「自分のため」ではなく「神はまへ礼拝をささげるため」に歩むことです。

 

祈り文

愛する天の父なる神さま。

あなたがモーセを召されたように、私たち一人ひとりにも使命を与えてくださっていることを感謝します。ときに前に立ちはだかる困難や、人の心の頑なさに直面することがありますが、そのすべてをあなたがご存じであり、あなたの御力によって道が開かれることを信じます。

どうか私たちが、自分の願望や計画ではなく、あなたを礼拝するために生きる者であれますように。困難の中でもあなたの臨在を確信し、従順に歩ませてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

 


わたしは『わたしはある』

2025/08/20

 

"モーセは神に言った。「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」

神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」"

出エジプト記 3章13~14節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

解説

出エジプト記3章13〜14節は、神さまがご自身の名前を啓示されたきわめて重要な場面です。

モーセは、自分がイスラエルの民のもとに行ったとき、彼らが「誰があなたを遣わしたのか」と尋ねるだろうと考えました。古代イスラエルにおいて「名」は単なる呼び名ではなく、その存在の本質や性質を表すものでした。そこで神さまは、モーセにご自身の名をこう告げられます。

「わたしは『わたしはある』という者である」(ヘブル語:Ehyeh Asher Ehyeh)。

エフイェー・アシェル・エフイェー

この表現は「わたしは存在する者」「わたしは変わらず在る者」「わたしは成すべきことを成す者」など、多面的な意味を含みます。神さまは移ろう被造物とは異なり、永遠に変わらず、自ら存在する唯一の方です。この自己宣言は、イスラエルが置かれていた不安定な状況の中で、揺るがぬ土台を与えるものでした。

また、この「わたしはある」という神さまの名は、新約聖書においてイエス・キリストご自身が用いられます(ヨハネ8:58「アブラハムが生まれる前から、わたしはある」)。これは、旧約の神さまとイエスさまが同じであることを示す、非常に深い宣言です。

 

祈り文

「わたしはある」と宣言される神さま、

あなたは始まりも終わりもなく、永遠に変わらないお方です。

私たちは時に、未来への不安や自分の弱さに心揺さぶられますが、あなたの変わらぬ御名のもとで安心を得ます。

どうか、あなたの御名に込められた真理を覚え、日々の歩みの中で揺るがぬ信頼を持たせてください。

私がどこへ行こうとも、「わたしはある」お方が共におられることを忘れず、あなたの使命に応えて歩ませてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

 


私は、いったい何者なのでしょう

2025/08/19

 

"モーセは神に言った。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」"

出エジプト記 3章11節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

解説

出エジプト記3章11節は、神さまから使命を与えられたモーセの最初の反応を記録しています。

燃える柴の中から神さまが直接語りかけ、イスラエルの民をエジプトから救い出すという大きな使命を託されたとき、モーセは即座に「はい」とは答えませんでした。彼は自分の立場や力のなさを思い、「私はいったい何者なのでしょう」と問いかけます。

この言葉には、過去の失敗や逃亡生活の記憶、また自分の能力への不安が滲み出ています。モーセは40年前、同胞を助けようとして失敗し、エジプトを逃れて以来、羊飼いとして静かに生きてきました。その彼にとって、再びエジプトの権力者であるファラオと向き合い、民を導き出すなど、自分の器をはるかに超えることのように思えたのです。

聖書は、このように「自分には無理だ」と感じる人を神さまが用いられる場面を何度も描きます。それは、成功の源が人間の能力ではなく、神さまの力であることを明らかにするためです(Ⅱコリント12:9)。モーセの弱さも、神さまの偉大さが表される舞台となりました。

 

 

祈り文

全能の神さま、

あなたは、力や資格のない者をも用い、あなたの計画を成し遂げられるお方です。

私も、使命や課題の前で「私は何者なのでしょう」と思うことがあります。

しかし、私の小ささや弱さを超えて、あなたは働かれることを信じます。

どうか、自分の限界ではなく、あなたの力に目を向ける信仰を与えてください。

あなたが共におられるなら、どんな道も進むことができると確信できますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。


父祖の神

2025/08/18

 

"さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。"

出エジプト記 3章6節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

解説

出エジプト記3章6節は、モーセが燃える柴の中で神さまの自己紹介を聞く場面です。神さまはご自身を「あなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と名乗られます。これは、モーセにとって自分が属する信仰の系譜を思い起こさせる言葉でした。神さまは遠い存在ではなく、歴史を通して契約を守り、導いてこられたお方です。

モーセはその瞬間、神さまの聖さとご威光に圧倒され、顔を隠しました。聖書において、神さまを直接見ることは人間の限界を超える体験であり、しばしば畏れと敬意を伴います(イザヤ6:5、ヨハネ黙示録1:17)。ここでの「恐れ」は単なる恐怖ではなく、神さまの偉大さに対する深い畏敬の念です。

この場面は、私たちにも「神さまは歴史を通して変わらず生きておられる」こと、そして「神さまの前に出るときのへりくだり」の大切さを思い起こさせます。

 

祈り文

永遠の契約を守られる神さま、

あなたがアブラハム、イサク、ヤコブとともにおられたように、今も生きて働いておられることを感謝します。

私もあなたの物語の中に招かれ、導かれていることを覚え、感謝します。

どうか、あなたの聖なる御前に出るとき、モーセのようにへりくだり、あなたを畏れ敬う心を持ち続けられますように。

そして、あなたが歴史を通して示された真実と愛を、次の世代へと受け渡す者とならせてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。


聖なる地

2025/08/17

 

"主は、彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の茂みの中から彼に「モーセ、モーセ」と呼びかけられた。彼は「はい、ここにおります」と答えた。

神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」"

出エジプト記 3章4~5節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

解説

出エジプト記3章4〜5節は、モーセの召命の場面の核心部分です。神さまは燃える柴の中からモーセを呼び、「モーセ、モーセ」と二度名前を呼ばれます。聖書で名前を繰り返す呼びかけは、深い愛情や重要な使命を示すときによく見られる表現です(例:創世記22:11「アブラハム、アブラハム」)。これは、神さまがモーセをよく知っておられ、特別な目的のために選んでおられる証拠です。

さらに神さまは、「履き物を脱げ」と命じます。古代中東文化では、履き物を脱ぐことは敬意とへりくだりの表れであり、神聖な場所への礼儀でした。ここで神さまが「あなたの立っている場所は聖なる地である」と語られたのは、その場所自体が特別だからではなく、神さまの臨在によって聖とされているからです。

この出来事は、私たちに「神さまの前に立つとき、心と態度を整えることの重要性」を教えています。

 

祈り文

聖なる神さま、

あなたがモーセを名を呼んで招かれたように、私たち一人ひとりをも覚え、呼びかけてくださることを感謝します。

あなたの前に立つとき、心を低くし、すべての高ぶりを脱ぎ捨て、聖なる臨在にふさわしい者として整えられますように。

私の歩む道がどこであっても、そこにあなたがおられるならば、その場所は聖なる地であると信じます。

どうか、あなたの声を聞き分け、ただちに応答する心をお与えください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。


柴は燃え尽きない

2025/08/16

 

"すると主の使いが、柴の茂みのただ中の、燃える炎の中で彼に現れた。彼が見ると、なんと、燃えているのに柴は燃え尽きていなかった。"

出エジプト記 3章2節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

解説

出エジプト記3章2節は、モーセが神さまの召しを受ける劇的な場面の冒頭です。彼はミディアンの荒野で羊を飼っている最中、燃えているのに燃え尽きない柴の茂みを目にします。この不思議な光景は、神さまご自身の臨在と、その聖なる働きの象徴です。

柴が燃えているのに燃え尽きないことは、神さまの力と性質を表しています。人間的な限界では、火に包まれればやがて燃え尽きてしまうはずですが、神さまの火は破壊するためではなく、聖め、導き、使命を与えるために働きます。

同時に、この出来事は、モーセが自分の力ではなく神さまの力によってイスラエルを導く使命を担うことになる前触れです。燃え尽きない柴のように、神さまに召された者は困難の中でも支えられ、燃え尽きることなく働きを続けることができるという希望が込められています。

 

祈り文

天の父なる神さま、

あなたがモーセに現れたように、私たちの人生にも御臨在を示してくださることを感謝します。

燃え尽きない柴のように、あなたの力は衰えることなく、私たちを支え続けてくださいます。

どうか、私たちが日々の務めや使命を果たす中で、自分の力に頼らず、あなたの聖なる力に依り頼む者であらせてください。

困難や試練の中にあっても、あなたの愛と導きによって燃え尽きることなく歩めるよう、私たちを強めてください。

主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。

アーメン。

 


ミディアンの祭司

2025/08/15

 

"さて、ミディアンの祭司に七人の娘がいた。彼女たちは父の羊の群れに水を飲ませに来て、水を汲み、水ぶねに満たしていた。"

出エジプト記 2章16節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

解説

ミディアンはアブラハムとケトラの子ミディアンの子孫が住む地で、エジプトの東方、シナイ半島やアラビア北西部に位置していました。そこでモーセが出会った「ミディアンの祭司」とは、土地の指導的立場にある人物で、宗教的役割だけでなく、部族の長として政治や生活面でも権威を持っていました。彼の七人の娘たちは、父の羊の群れに水を飲ませるため、井戸から水を汲んでいました。

命を守るために逃亡してきたモーセにとって、この出会いは異国での生活の入口であり、神さまが新たな道を開くための重要な転機となりました。

 

 

祈り文

全能の神さま、

主はモーセを危機から守り、

ミディアンで新たな人々と出会わせてくださいました。

私たちの人生においても、

思いがけない出会いや場所を通して、

主のご計画が進められることを信じます。

孤独や不安の中でも、

主の備えに信頼して歩む者としてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


多くの試練

2025/08/14

 

"次の日、また外に出てみると、見よ、二人のヘブル人が争っていた。モーセは、悪いほうに「どうして自分の仲間を打つのか」と言った。

彼は言った。「だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか。おまえは、あのエジプト人を殺したように、私も殺そうというのか。」そこでモーセは恐れて、きっとあのことが知られたのだと思った。

ファラオはこのことを聞いて、モーセを殺そうと捜した。しかし、モーセはファラオのもとから逃れ、ミディアンの地に着き、井戸の傍らに座った。"

出エジプト記 2章13~15節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

解説

モーセは同胞から拒絶され、さらにエジプト人殺害の件が王の耳に入り、命を狙われる身となりました。王宮での恵まれた立場から一転、命からがら荒野へと逃亡します。逃亡は、単に場所を移すことではなく、命の危険、飢えや渇き、孤独、将来の不安といった多くの試練を伴うものでした。ミディアンにたどり着くまでの道のりは、彼にとって肉体的にも精神的にも過酷なものであり、これが後に神さまに仕える器としての備えの時期となっていきます。

 

 

祈り文

憐れみ深い神さま、

モーセが命を懸けて逃亡したように、

私たちも人生で逃げざるを得ない状況に直面することがあります。

そのような時、恐れと不安の中でも、

神さまが共におられ、守り導いてくださることを信じます。

苦難の時も、神さまの備えと訓練の時であることを悟らせてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


自分の力の限界と罪

2025/08/13

 

"こうして日がたち、モーセは大人になった。彼は同胞たちのところへ出て行き、その苦役を見た。そして、自分の同胞であるヘブル人の一人を、一人のエジプト人が打っているのを見た。

彼はあたりを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺し、砂の中に埋めた。"

出エジプト記 2章11~12節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

解説

大人になったモーセは、王宮で育ちながらも自分がヘブル人であることを忘れず、同胞の苦しみを見て心を動かされました。しかし、その怒りと義憤は神さまの方法ではなく、自分の力で正義を行おうとしたため、人を殺すという罪に至ってしまいます。この出来事は、後に神さまに召される前に、モーセが自分の力の限界と罪を知るためのきっかけとなりました。

 

祈り文

主なる神さま、

モーセのように、弱い者の苦しみに心を動かす思いを私たちにもお与えください。

しかし同時に、自分の力や感情に頼らず、

主の時と方法を待ち望む信仰を与えてください。

正義を行うときも、怒りではなく、

イエスさまの愛と導きによって動く者としてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


その子をモーセと名づけた

2025/08/12

 

"その子が大きくなったとき、母はその子をファラオの娘のもとに連れて行き、その子は王女の息子になった。王女はその子をモーセと名づけた。彼女は「水の中から、私がこの子を引き出したから」と言った。"

出エジプト記 2章10節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

解説

モーセは母の信仰と知恵によって命を守られ、神さまの計らいの中でファラオの娘に養われることになりました。奴隷の子として生まれた彼が、エジプト王家の一員として成長する道は、人の計画ではなく神さまの御手によるものでした。「モーセ(引き出す)」という名には、彼の生涯全体を象徴するように、神さまが彼を救い出し、やがてイスラエルの民を救い出す使命へと導く意味が込められています。

 

 

祈り文

全能の神さま、

モーセが水の中から引き出されたように、

私たちも神さまに救い出され、生かされていることを感謝します。

どのような境遇からでも、

神さまのご計画と使命の中に置かれていることを信じます。

どうか私たちも、与えられた使命に従い、

イエスさまの栄光を表す歩みをする者としてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


神に委ねました。

2025/08/11

 

"彼女は身ごもって男の子を産み、その子がかわいいのを見て、三か月間その子を隠しておいた。

しかし、それ以上隠しきれなくなり、その子のためにパピルスのかごを取り、それに瀝青と樹脂を塗って、その子を中に入れ、ナイル川の岸の葦の茂みの中に置いた。"

出エジプト記 2章2~3節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

解説

エジプトの王(パロ)は、イスラエルの民が増え続けることを恐れ、助産婦に男の子を殺すよう命じました(出エジプト記1章16節)。それでも神を恐れる助産婦たちは命令に従わず、イスラエルの子どもたちを生かしました。やがてパロはさらに厳しい命令を出し、すべての男の子をナイル川に投げ込むよう命じました。

モーセの母は、この恐ろしい状況の中で息子を三か月間隠し、もう隠せないとき、パピルスのかごに入れて神に委ねました。人間の暴力と命令に抗う勇気と、神への信頼が、後にイスラエルを救うモーセの誕生につながったのです。

 

 

祈り文

主なる神さま、

不正な力が命を奪おうとする中でも、

あなたを恐れ、命を守ろうとした助産婦たちや

モーセの母の勇気を覚えます。

私たちも悪に屈せず、

あなたを第一に恐れ、

命を尊び、守り抜く信仰を与えてください。

どのような危機の中でも、

あなたにゆだねる道を選ぶことができますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


神を恐れた

2025/08/10

 

 

"助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた。"

出エジプト記 1章21節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

解説

エジプトの王がヘブル人の男の子を殺すよう命じたとき、助産婦たちは神を恐れて王の命令に従わず、子どもたちを生かしました。彼女たちの信仰と勇気は神に喜ばれ、神は彼女たちを祝福し、家を栄えさせました。これは、人を恐れるのではなく、神を第一に敬う者に、神が報いてくださることを示しています。

 

 

祈り文

全能の神さま、

助産婦たちが命を守るために勇気をもって立ち上がったように、

私たちもあなたを恐れ、正しいことを選び取る信仰を与えてください。

人の目や力に惑わされず、

あなたの御心を第一に歩む者としてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


ヨセフは彼らを安心させ

2025/08/09

 

 

"これらはすべてイスラエルの部族で、十二であった。これは、彼らの父が彼らに語ったことである。彼らを祝福したとき、それぞれにふさわしい祝福を与えたのであった。"

創世記 49章28節

"ヨセフは言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりになることができるでしょうか。

あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。

ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたも、あなたがたの子どもたちも養いましょう。」このように、ヨセフは彼らを安心させ、優しく語りかけた。"

創世記 50章19~21節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

解説

ヤコブは、十二の部族それぞれに神からの使命と役割が与えられていることを示すように、ふさわしい祝福を与えました(創49:28)。この多様な祝福は、イスラエル全体が神の民として一つに結ばれるためのものです。

また、ヨセフは兄たちを赦し、「神が悪を良いことに変えられた」と語りました(創50:19–21)。人間の罪や過ちさえも、神の御手の中で救いと命のために用いられることを表しています。

 

祈り文

愛する天の父なる神さま、

あなたは私たち一人ひとりに異なる使命と祝福を備え、

それらを通して御国の計画を進めてくださいます。

過去の傷や不安も、

あなたの御手の中で良いことへと変えられることを信じます。

ヨセフのように赦しと愛をもって、

互いに支え合いながら歩む者としてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


それぞれにふさわしい祝福を

2025/08/08

 

"これらはすべてイスラエルの部族で、十二であった。これは、彼らの父が彼らに語ったことである。彼らを祝福したとき、それぞれにふさわしい祝福を与えたのであった。"

創世記 49章28節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

解説

ヤコブが息子たちに語った最後の言葉は、単なる別れのあいさつではなく、神からの預言的な祝福でした。十二人それぞれに異なる性質や使命があり、それぞれにふさわしい祝福が与えられました。神の計画の中では、すべての部族が役割を持ち、共にイスラエルの民として立てられることを示しています。

 

 

祈り文

主なる神さま、

あなたは一人ひとりに異なる賜物と使命を与え、

それぞれにふさわしい祝福を備えてくださるお方です。

私たちも自分の役割を喜び、

互いに尊重し合いながら、

あなたの御国のために仕えることができますように。

イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


人の考えや順序を越えて

2025/08/07

 

"それからヨセフは二人を、右手でエフライムをイスラエルの左手側に、左手でマナセをイスラエルの右手側に引き寄せた。そして二人を彼に近寄らせた。

ところがイスラエルは、右手を伸ばして弟であるエフライムの頭に置き、左手をマナセの頭に置いた。マナセが長子なのに、彼は手を交差させたのである。"

創世記 48章13~14節

"しかし、父は拒んで言った。「分かっている。わが子よ。私には分かっている。彼もまた、一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし、弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるほどになるであろう。」"

創世記 48章19節

 

 

解説

この場面は、ヤコブ(イスラエル)が孫のマナセとエフライムを祝福するシーンです。通常なら長子マナセが右手の祝福を受けるはずでしたが、神の導きによりヤコブは手を交差させ、弟エフライムを右手で祝福しました。これは、人間の順序や期待を超えて、神のご計画が働くことを示しています。神の祝福は血筋や序列だけでなく、神の選びと目的によって与えられるのです。

 

 

祈り文

天の父なる神さま、

主は人の考えや順序を越えて、最善の計画を進められるお方です。

私たちが自分の思いや常識にとらわれず、

主の導きに従って歩むことができますように。

どのような立場にあっても、

主の祝福とご計画の中で用いられる者としてください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


深い悲しみと絶望の中にあっても

2025/08/06

 

"私の苦しみとさすらいの思い出は、苦よもぎと苦味だけ。

私のたましいは、ただこれを思い出しては沈む。

私はこれを心に思い返す。それゆえ、私は言う。「私は待ち望む。

主の恵みを。」実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。

それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は偉大です。

主こそ、私への割り当てです」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。"

哀歌 3章19~24節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

解説

哀歌3章19~24節は、深い悲しみと絶望の中にあっても、神の恵みと真実に希望を見出す信仰告白です。

筆者はまず、自らの「苦しみとさすらい」、そして「苦よもぎ(強い苦味をもつ植物)」を思い起こし、心が沈むと正直に語ります。これは、神に心の痛みを隠さず差し出す姿勢を表しています。

しかし、そのまま絶望に飲み込まれるのではなく、筆者は「心に思い返す」ことを選びます。ここで思い返すのは、神のあわれみと真実です。私たちは罪や困難の中にあっても滅びなかった。それは神の恵みが尽きないからです。

この恵みは一度きりではなく、「朝ごとに新しい」と書かれています。たとえ昨日は涙に暮れたとしても、今日また新しい恵みとあわれみが私たちに注がれるのです。

そして最後に、筆者は「主こそ、私への割り当てです」と宣言します。これは、地上で失ったものがあっても、人生が破壊されても、主ご自身が最大の宝であり、私のすべてであるという告白です。この信仰によって、筆者は「主を待ち望む」と結びます。

 

祈り文

恵み深い主よ、

私たちは時に、苦しみと孤独の中で心が沈み、希望を見失いそうになります。

しかし、あなたのあわれみは尽きることなく、朝ごとに新しく注がれることを覚えます。

主よ、私たちが失望や不安に押しつぶされそうなとき、

あなたが私たちの「割り当て」であり、最大の慰めであることを思い起こさせてください。

あなたの真実と恵みに信頼し、静かにあなたを待ち望む心をお与えください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

 


死ぬ日が近づいたとき

2025/08/05

 

"イスラエルに死ぬ日が近づいたとき、彼はその子ヨセフを呼び寄せて言った。「もしおまえの心にかなうなら、おまえの手を私のももの下に入れ、私に愛と真実を尽くしてくれ。私をエジプトの地には葬らないでほしい。

私が先祖とともに眠りについたら、エジプトから運び出して、先祖の墓に葬ってくれ。」ヨセフは言った。「必ずあなたの言われたとおりにいたします。」"

創世記 47章29~30節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

解説

創世記47章29~30節は、イスラエル(ヤコブ)が自らの死期を悟り、最も愛する息子ヨセフに遺言を託す場面です。ヤコブは、エジプトでの豊かな生活を享受しつつも、神が与えた約束の地カナンこそが本来の帰るべき場所であることを深く理解していました。

彼は「私をエジプトの地には葬らないでほしい」と願い、先祖たちが眠る墓に自分も葬ってほしいと頼みます。この言葉には、神がアブラハム、イサク、そしてヤコブに与えた「約束の地」の希望と信仰が込められています。死後もなお、神の約束を離れたくない。これがヤコブの信仰の証しでした。

また、「おまえの手を私のももの下に入れ」という表現は、古代において最も厳粛な誓いの方法で、深い忠誠と真実を表します。ヨセフはこれを受け止め、父の願いを必ず果たすと誓いました。これは単なる家族愛ではなく、神の導きに従う信仰の継承とも言えます。

 

祈り文

天の父なる神さま、

あなたがアブラハム、イサク、ヤコブに与えられた約束の地を思い起こします。ヤコブが死を前にしても、あなたの約束を信じ、そこに帰ることを望んだように、私たちもこの地上の豊かさに留まらず、天の故郷を見つめて歩む者とならせてください。

また、ヨセフが父の願いを忠実に受け止めたように、私たちも家族や隣人の思いに耳を傾け、誠実に応える心をお与えください。終わりの時が近づいても、あなたの約束が決して揺らがないことを覚え、信仰を持って歩み続けることができますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。


生きた年月には及びません

2025/08/04

 

"ヤコブはファラオに答えた。「私がたどってきた年月は百三十年です。私の生きてきた年月はわずかで、いろいろなわざわいがあり、私の先祖がたどった日々、生きた年月には及びません。」"

創世記 47章9節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

解説

この創世記47章9節は、ヤコブがエジプトの王ファラオの前に立ち、自分の人生を振り返って語った言葉です。

ヤコブは「百三十年」と長い生涯を生きてきましたが、彼自身は「わずかで、わざわいが多かった」と表現しています。これは、彼が兄エサウとの争い、ラバンとの困難、愛するラケルの死、そしてヨセフを失った悲しみなど、数々の試練を通ってきたからです。

しかし同時に、この言葉には 深い謙遜神の守りへの信頼 が表れています。

彼は先祖アブラハムやイサクと比べ、自分の人生は取るに足らないと感じつつも、神がすべての災いを通して導き、ついには家族とともに救いへと至らせたことを知っていました。

私たちもまた、人生の長さや成功ではなく、神に導かれて歩んだ日々こそが尊く、最後には神の恵みがすべてを覆うことを覚えるべきです。

 

祈り文

恵み深い天の父なる神さま、

ヤコブは百三十年の歩みを振り返り、「わずかで、わざわいが多かった」と告白しました。

しかし、あなたはそのすべての試練を通して彼を守り、祝福の計画を成し遂げられました。

主よ、私たちの人生も時に困難や悲しみに満ちています。

けれども、あなたが共におられ、導いてくださることを信じます。

私たちが人生を終えるとき、「主がここまで守ってくださった」と感謝をもって振り返ることができますように。

どうか、試練の中にもあなたの御手を見出し、信仰を持って歩み続ける者とならせてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

 


人間の理解を超えた救い

2025/08/03

 

"彼らは父に告げた。「ヨセフはまだ生きています。しかも、エジプト全土を支配しているのは彼です。」父は茫然としていた。彼らのことばが信じられなかったからである。"

創世記 45章26節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

解説

 

この創世記45章26節は、ヨセフの兄たちが父ヤコブに、長年死んだと思っていたヨセフが実は生きており、しかもエジプト全土を治めていることを告げた場面です。

ヤコブは長い年月、ヨセフが死んだと信じて悲しみの中で過ごしてきました。そのため、突然の知らせを聞いた時、あまりの驚きと信じられない思いで心が動揺し、茫然としてしまいました。

ここには、神の計画の不思議さ人間の理解を超えた救いの業が表れています。

私たちも人生で絶望や喪失を経験し、希望を見失うことがあります。しかし、神は私たちの知らないところで働かれ、時が満ちると驚くべき形で回復と祝福を与えてくださいます。

 

 

祈り文

天の父なる神さま、

あなたは絶望の中にいるヤコブに、失ったと思っていた息子ヨセフが生きているという知らせを与えてくださいました。

私たちも時に、悲しみや不信の中で希望を見失いますが、あなたは常に見えないところで救いの道を備えておられることを感謝します。

どうか私たちが、目に見える状況に惑わされず、あなたの計画を信じて歩むことができますように。

失われたと感じる大切なものも、あなたの御手の中で必ず回復されることを覚え、信仰を強めてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

 


隔たり

2025/08/02

 

"それで、ヨセフにはヨセフ用に、彼らには彼ら用に、ヨセフとともに食事をするエジプト人にはその人たち用に、それぞれ別々に食事が出された。エジプト人は、ヘブル人とはともに食事ができなかったからである。それは、エジプト人が忌み嫌うことであった。"

創世記 43章32節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

解説

この節では、ヨセフがエジプト人と彼の兄弟たちに対して、それぞれ別々の食事を出したことが記されています。なぜ別々に食事をしたのか、その理由は「エジプト人が忌み嫌うこと」であったとあります。

エジプト人の文化や宗教的な背景には、異民族や異文化に対する偏見や、特定の食事や交わりに関する規範が存在しました。特にヘブル人(イスラエルの兄弟たち)に対しては、宗教的・文化的な理由から、彼らと一緒に食事をすることが忌避されていたのです。

この習慣は、単なる食事の違いだけでなく、文化や宗教的な区別、さらには社会的な隔たりを示しています。エジプト人にとって、異なる民族や文化の人々と共に食事をすることは、彼らの宗教的な信仰や社会的な規範に反するものであったためです。

ヨセフがこのように区別して食事をさせたことは、当時の文化的背景や社会的な慣習を反映しています。同時に、後の展開では、神の導きのもとでこの隔たりが解消されていく様子も示唆されます。

 

祈り文

 

天の父なる神さま、

主の御心に従い、私たちの心を清めてください。文化や背景の違いにより隔たりが生まれることもありますが、主はすべての人を愛し、受け入れてくださるお方です。私たちが互いに理解と尊重をもって接し、主の愛の築く平和のために歩むことができるよう助けてください。

主の恵みと導きの中で、私たちの心に偏見や隔たりを取り除き、すべての人と一つとなる喜びを与えてください。神さまの御子イエス・キリストの愛によって、私たちの関係も新たにされますように。

イエスさまの栄光のために生きることができますように、イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

 


かつて彼らについて見た夢

2025/08/01

 

"かつて彼らについて見た夢を思い出して、ヨセフは言った。「おまえたちは回し者だ。この国の隙をうかがいに来たのだろう。」"

創世記 42章9節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

解説

この節でヨセフは、過去に見た夢を思い出しながら、兄弟たちに対して「おまえたちは回し者だ」と言います。これは、彼が彼らの動機や行動を疑っていることを示しています。彼の夢の中で彼は自分が特別な役割を果たすことを見ており、その夢が今や現実の状況と絡み合っています。

この場面の重要なポイントは、ヨセフが兄弟たちを試すために敢えてこうした言葉を投げかけていることです。彼は兄弟たちの心の動きや、彼らの誠意を見極めようとしているのです。これは、彼の深い思いやりと、兄弟たちとの再会への複雑な感情が表現された場面でもあります。

この節を通じて、私たちは神の導きや計画の中で、試練や誤解があっても、最終的には和解や救いに至ることを学ぶことができます。

 

祈り文

 

天の父なる神さま、

主の導きと恵みに感謝します。私たちの人生において、試練や誤解、疑いの中にあっても、主のご計画は常に最善であることを信じます。ヨセフが兄弟たちを試しながらも、最終的には許しと和解に至ったように、私たちも主の愛と導きに従い、心を清めて誠実に歩むことができるよう助けてください。

神さまの恵みと平和の中で、私たちが他者と向き合うとき、愛と理解をもって接することができるように、私たちの心を照らしてください。主の計画の中で、私たち一人ひとりがあなたの御手に委ねられ、イエスさまの栄光のために生きることができますように。

イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。


良心のとがめ

2025/07/31

 

"彼らは互いに言った。「まったく、われわれは弟のことで罰を受けているのだ。あれが、あわれみを求めたとき、その心の苦しみを見ながら、聞き入れなかった。それで、われわれはこんな苦しみにあっているのだ。」"

創世記 42章21節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

解説

この場面は、飢饉のさなかにヨセフの兄たちが食糧を求めてエジプトにやって来たときの出来事です。彼らはまだ、エジプトの権力者が弟ヨセフであることを知りません。しかし、厳しく追及されるうちに、良心のとがめがあらわになります。かつて、弟ヨセフがあわれみを求めて叫んだとき、彼らはその声を無視し、売り飛ばしました。年月がたっても、その記憶は消えることなく、今、自分たちの苦しみの中で思い起こされます。

この一節は、「良心の目覚め」を描いています。それはただの罪悪感ではなく、「自分たちがしたことの重み」と「他者の痛み」をようやく受け止め始めた瞬間です。

神さまはときに、外側の試練を用いて、内側の心を深く掘り起こされます。

この兄たちの告白は、やがて真の悔い改めと和解へとつながっていく第一歩です。

 

祈り文

愛する天の父なる神さま。

主は私たちの心の奥底までご存じのお方です。

どんなに時がたっても、私たちの過去の行いや忘れていた思いを、

静かに、そして深く思い起こさせてくださることがあります。

どうか、私たちの心にも真実な光を照らしてください。

自分のしたことと向き合う勇気を与えてください。

傷つけてしまった人の痛みにも、心を開く者とならせてください。

主よ、過ちを悔い改める者に、

赦しと回復の道を備えてくださる主に信頼します。

主の恵みの中で、

壊れた関係さえも、和解と愛によって結び直されますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

 


最も大きな転換点

2025/07/30

 

"おまえが私の家を治めるがよい。私の民はみな、おまえの命令に従うであろう。私がまさっているのは王位だけだ。」

ファラオはさらにヨセフに言った。「さあ、私はおまえにエジプト全土を支配させよう。」

そこで、ファラオは自分の指輪を指から外してヨセフの指にはめ、亜麻布の衣服を着せ、その首に金の首飾りを掛けた。

そして、自分の第二の車に彼を乗せた。人々は彼の前で「ひざまずけ」と叫んだ。こうしてファラオは彼にエジプト全土を支配させた。"

創世記 41章40~43節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

解説

この場面は、ヨセフの人生における最も大きな転換点です。

これまで奴隷として、囚人として、不当に扱われていたヨセフが、今や王の信任を受けてエジプト全土を治める宰相(大臣)となりました。

ファラオがヨセフに与えたものは単なる地位ではありません。・指輪:王の権威の象徴(公印として使われる)・亜麻布の衣服:尊厳と身分の回復・金の首飾り:名誉と権力の象・徴第二の車とひざまずく命令:国民の前で公にされた敬意と服従

ヨセフの忠実さと知恵は、長年にわたる試練と神さまへの信頼によって鍛えられてきました。そして神さまは、「人に忘れられていたヨセフ」を、「王の右腕となる人物」へと引き上げられたのです。この出来事は、神さまがどんな低いところにあっても私たちを覚え、ふさわしい時に立たせてくださることを教えてくれます。それは決して「偶然」でも「成功の物語」でもなく、神さまのご計画と忠実な導きの結果なのです。

 

祈り文

天の父なる神さま。

主は低くされた者を高くし、

忘れられた者に目を留め、

ふさわしい時に立ち上がらせてくださるお方です。

ヨセフが長い苦難の時を経て、

エジプトの地で栄誉を受けたように、

私たちも、どのような時にも主を信頼し、忠実に歩む者であらせてください。

栄光のときにも、へりくだって聖霊さまに仕え、

与えられた役割を正しく果たすことができますように。

私の人生も、思い通りにはいかないことがありますが、

主のご計画は必ず良いものであると信じます。

どうか、どんな場面においても、

「神さまが共におられる人生」を生き抜く力を与えてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

 


神さまは私たちを忘れておられない

2025/07/29

 

"あなたが幸せになったときには、どうか私を思い出してください。私のことをファラオに話して、この家から私が出られるように、私に恵みを施してください。"

創世記 40章14節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

"ところが、献酌官長はヨセフのことを思い出さないで、忘れてしまった。"

創世記 40章23節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

解説

牢獄の中で夢を解き明かしたヨセフは、献酌官長が元の職務に戻ると知り、切実にこう頼みます。「私のことを思い出してください」。この言葉には、長い苦しみの中にある人の正直な心が込められています。しかし、23節にあるように、献酌官長はヨセフのことを「忘れてしまった」のです。人の期待は、時にあっけなく裏切られます。正しいことをしたはずなのに、報われない。そのような現実に、私たちも出会うことがあります。

けれども聖書は、この「忘れられた時間」が無駄ではなかったことを教えています。ヨセフはその後さらに2年を牢で過ごしますが、ちょうどよい「神さまの時」に、ファラオの夢を通して召し出されるのです。この出来事は、人の忘却の中でも、神さまは私たちを忘れておられないという慰めを与えてくれます。神さまのご計画は、人の思いやタイミングとは違うかもしれません。しかし、神さまは必ず覚えておられ、最善の時に、最善のかたちで導いてくださるのです。

 

祈り文

恵み深い神さま。

ヨセフが牢の中で「私を思い出してください」と願ったように、

私たちも時に、見捨てられたような思いを抱えることがあります。

人に期待したことが裏切られ、正しいことをしても報われない。

そんな思いの中でも、主は決して私を忘れず、覚えていてくださることを信じます。

たとえ人に忘れられても、私の名を主がご存じでいてくださること、

主の時が必ず来ることを信じて、今日も歩ませてください。

焦りや怒りではなく、静かな信頼と忍耐をもって、主の時を待てるように助けてください。私の願いよりも深く、私の思いよりも広く、

主のご計画が成し遂げられますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

 


人から評価されそうな場面においても

2025/07/28

 

"ファラオは人を遣わして、ヨセフを呼び寄せた。人々は急いで彼を地下牢から連れ出した。ヨセフはひげを剃り、着替えをして、ファラオの前に出た。

ファラオはヨセフに言った。「私は夢を見たが、それを解き明かす者がいない。おまえは夢を聞いて、それを解き明かすと聞いたのだが。」

ヨセフはファラオに答えた。「私ではありません。神がファラオの繁栄を知らせてくださるのです。」"

創世記 41章14~16節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

解説

この場面は、ヨセフの人生における転機の瞬間です。彼は不当に投獄され、長い間忘れられていたにもかかわらず、突然ファラオの前に呼び出されます。状況は一変しますが、ヨセフは動じることなく、整えられた姿で王の前に立ちます。ファラオの「おまえが夢を解き明かすと聞いた」という問いに対し、ヨセフの返答は実に印象的です。「私ではありません。神が…」と、即座に自分を前に出すことなく、神さまに栄光を帰しているのです。これは、人から評価されそうな場面においても、自分の力ではなく神さまの力によって働くという信仰の姿勢を示しています。

また、「神さまがファラオの繁栄を知らせてくださる」と告げることで、ヨセフはただ解釈を語るのではなく、神さまの思いを伝える器としての自覚を持っていることがわかります。牢から王宮へ、どんな立場に置かれていても、ヨセフは一貫して神さまに信頼し、神さまの栄光を第一にしていました。この姿勢は、私たちが変化の多い人生の中でも、何を土台として立つかを教えてくれます。

 

祈り文

天の父なる神さま。

あなたのご計画は、時に私たちの思いを超えて進みます。

地下牢から王宮へと導かれたヨセフのように、私もどんな場所に置かれていても、あなたを見上げ、信頼し続ける者でありたいと願います。

自分の力や知恵を誇るのではなく、「私ではありません。神がなさるのです」と、あなたの御業をあらわす器として整えてください。

人の評価や注目を求めて生きるのではなく、どんなときにもあなたの御心に従い、あなたに栄光をお返しできますように。今日の歩みの中でも、神さまの語りかけに敏感であらせてください。必要な言葉と態度を、あなたが与えてくださいますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

 


神のなさること

2025/07/27

 

"二人は答えた。「私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない。」ヨセフは言った。「解き明かしは、神のなさることではありませんか。さあ、私に話してください。」"

創世記 40章8節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

解説

この場面は、ヨセフが牢獄の中でファラオの献酌官と料理官と出会ったときのやり取りです。二人はそれぞれ意味深い夢を見ましたが、解き明かす術がなく、困っていました。

ここで注目すべきは、ヨセフの信仰の姿勢です。彼は、「解き明かしは自分の力によるものではなく、神さまのなさることだ」ときっぱりと語ります。これは、自分の力ではなく神さまに信頼して生きる姿をあらわしています。牢獄という不条理な環境にあっても、ヨセフは神さまとの交わりを失っていませんでした。むしろそのような場面でこそ、神さまが働かれることを信じ、他者に仕えようとしています。彼は「私に話してください」と続け、自分に与えられた使命を果たす準備ができていたのです。

この箇所は、私たちが困難の中にあっても「すべては神さまの御手にある」と信じて歩むことの大切さ、そして周囲の人々に心を開き、神さまの助けを共に求めていくことの大切さを教えてくれます。

 

祈り文

愛する天の父なる神さま。

主は、すべてを知り、すべてを導いておられるお方です。

自分の理解では答えが見えないとき、

私もヨセフのように「解き明かしは神のなさること」と信じる者でありたいと願います。

困難な場所にあっても、

主に信頼し、与えられた使命を果たせるように助けてください。

私の力ではなく、主の知恵と導きによって歩ませてください。

今日出会う人々の中に、悩みや重荷を抱えている方がいるなら、

どうか私を通して、主の希望と平安が届きますように。

話を聞く心と、仕える姿勢を与えてください。

すべての解き明かしと救いは、神さまにあります。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

 


主の祝福

2025/07/26

 

"それでヨセフは主人の好意を得て、彼のそば近くで仕えることになった。主人は彼にその家を管理させ、自分の全財産を彼に委ねた。

主人が彼にその家と全財産を管理させたときから、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を祝福された。それで、主の祝福が、家や野にある全財産の上にあった。"

創世記 39章4~5節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

解説

この聖句は、ヨセフが奴隷として売られたのち、エジプト人ポティファルの家で仕える中で、神が彼とともにおられ、彼を祝福された様子を記しています。

ヨセフ自身は、望まぬ境遇に置かれていました。故郷を離れ、奴隷という立場にありながらも、彼は誠実に仕え、与えられた役割に忠実でした。その結果、主はヨセフを通して彼の環境全体に祝福を注がれたのです。

この祝福は、ヨセフが置かれた立場や状況にかかわらず、「主がともにおられる」ことの力によってもたらされたものでした。

 

 

祈り文

主なる神さま、

ヨセフが苦しい状況にあっても、

見捨てず、彼とともにいてくださいました。

私もまた、思い通りにならない現実や、

心の内に不安を抱えることがあります。

けれど、どのような場所にあっても、

神さまがともにおられるなら、そこが祝福の場となると信じます。

ヨセフのように、与えられた場所で誠実に生き、

人に仕え、信頼を築く者となれますように。

私を通して、家族や職場、教会、地域社会に

主の祝福が流れていきますように。

主よ、あなたの臨在が、

今日も私の歩みに伴いますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


愛のない行為

2025/07/25

 

 

"すると、ユダが兄弟たちに言った。「弟を殺し、その血を隠しても、何の得になるだろう。

さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう。われわれが手をかけてはいけない。あいつは、われわれの弟、われわれの肉親なのだから。」兄弟たちは彼の言うことを聞き入れた。"

創世記 37章26~27節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

解説

この場面は、ヨセフに対する兄弟たちの憎しみが頂点に達し、実際に命を奪おうとしたその寸前に、ユダが現実的な提案をした場面です。

ユダは、ヨセフを殺すのではなく、イシュマエル人の商人に売ることを提案しました。動機は「利益」と「直接手を下さないこと」でしたが、いずれにしても愛のない行為であり、家族のきずなを踏みにじるものでした。

しかし、この決断が結果としてヨセフをエジプトへと導き、後にイスラエルの家族全体を飢饉から救う神の壮大なご計画につながっていくのです。

 

 

祈り文

恵み深い神さま、

人の誤りや傷の中にも、

ご自身の救いの道を備えてくださるお方です。

兄弟に裏切られ、売られたヨセフの姿の中に、

私たちは苦しみの中でなお希望を失わなかった信仰を見出します。

また、ユダのように誤った選択をしてしまう人間の弱さも思い知らされます。

主よ、私が人を利害で判断したり、

自分の正しさを優先して他者を傷つけたりしないよう、

心をいつも整えていてください。

過去の過ちや弱さにとらわれることなく、

そこからイエスさまの御手による新しい始まりを見出せるよう、

信仰の目を与えてください。

私の思いや行動が、たとえ不完全であっても、

イエスさまのご計画の中で用いられることを信じて歩ませてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 


偏った愛

2025/07/24

 

"ヨセフの兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、穏やかに話すことができなかった。"

創世記 37章4節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

解説

この聖句は、ヨセフの兄弟たちが感じていた「偏った愛」への怒りと嫉妬を表しています。

ヨセフの父ヤコブ(イスラエル)は、ラケルの子であるヨセフを特別に愛しました。その愛が明らかになればなるほど、兄たちは心に憎しみを募らせ、ついには彼と「穏やかに話すことすらできなかった」とあります。

これは家庭内の「愛の不均衡」がもたらす葛藤の典型例であり、私たちも日常生活で、愛の偏りや比較による痛みを経験することがあります。

この出来事は、のちにヨセフが裏切られ、苦しみに遭うきっかけとなりますが、それさえも神のご計画の一部として用いられていきます。

 

祈り文

主よ、

あなたは心の奥底を知っておられるお方です。

私はときに、人の愛や評価に心を奪われ、比べてしまい、

ねたみや不満の思いを抱えてしまいます。

どうか私の心を探り、傷つきやすく怒りに傾きやすいこの内面を、

イエスさまの愛でいやしてください。

ヨセフの兄たちが嫉妬に心を閉ざしたように、

私も気づかぬうちに誰かを遠ざけているかもしれません。

どうか赦しと平和をもって、私の人間関係を導いてください。

誰かが特別に見えるときも、

私は神さまの目にはかけがえのない一人であると信じて、

誇りを持って歩むことができますように。

主よ、ねたみの心ではなく、感謝の心を与えてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


祭壇を築こう

2025/07/23

 

 

"私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこに、苦難の日に私に答え、私が歩んだ道でともにいてくださった神に、祭壇を築こう。」"

創世記 35章3節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

解説

この言葉は、ヤコブが自らの歩みを振り返り、人生の旅路における神の導きと守りを深く実感して語ったものです。

困難の時にも祈りに応え、常に共にいてくださった神への感謝がにじみ出ています。

「祭壇を築こう」との決意は、神の真実さと恵みに応える信仰者の応答であり、信仰の継続的な歩みを象徴しています。

この告白は、すべての信仰者にとって、自らの信仰を新たにし、感謝をもって神に立ち返る励ましとなるでしょう。

 

 

祈り文

恵み深い天の父なる神さま。

聖霊さまは私が苦しみの中にあった時も、

孤独や恐れの中にあった時も、

常に私とともにいてくださいました。

今日、私はヤコブのように立ち上がり、

神さまの御前に進み出て、感謝の祭壇を築きます。

これまでの歩みにおいて、

私の祈りに応えてくださり、

道に迷ったときには導きを、

疲れ果てたときには力を与えてくださったことを覚えます。

どうか、これからの歩みの中でも、

聖霊さまの御声に耳を傾け、

イエスさまの臨在を信じて進むことができますように。

感謝と賛美をもって、

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。


祈り求める

2025/07/22

 

"その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」"

創世記 32章28節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

解説

これはヤコブが神と格闘した夜の出来事です。「ヤコブ」(だます者)から「イスラエル」(ヘブライ語:יִשְׂרָאֵל, Yisra’el(神と戦う者)への名前の変更は、彼の霊的転機を表します。神との格闘の中で、本当のアイデンティティが変えられていくことの象徴です

 

祈り文

全能の神さま、

私たちの弱さも、過去も、逃げてきた現実もご存じの上で、

なお私たちに出会い、新しく名前を与えてくださるお方です。

ヤコブが一人きりの夜に、神さまと格闘し、

「イスラエル」と名を変えられたように、

私たちもまた、神さまと向き合う中で

本当の自分に変えられていきたいと願います。

これまでの失敗や偽りに縛られることなく、

神さまがくださる新しい名、

新しい使命に生きる力をお与えください。

神と人との間で揺れ動く人生の中でも、

聖霊さまにしがみつき、祝福を求め、

イエスさまの御前で立ち続ける者とならせてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

 


人と人との間に

2025/07/21

 

"また、それはミツパとも呼ばれた。彼がこう言ったからである。「われわれが互いに目の届かないところにいるとき、主が私とあなたの間の見張りをされるように。"

創世記 31章49節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

解説

ヤコブとラバンの間にある緊張関係の中で交わされた言葉。これは“神が中立の立場で見張ってくださる”という祈りですが、人との関係において神の御前で誠実に生きるという責任を思い起こさせます。

 

 

祈り文

 

天の父なる神さま、

神さまは私たちが互いに離れているときにも、

その間に立ち、正しく見守ってくださるお方です。

ヤコブとラバンの間にあった緊張とすれ違いの中で、

「主が見張りをされるように」と語られた言葉は、

神さまの御前で生きる者として、誠実さを忘れないようにとの戒めのように響きます。

私たちもまた、人との関係において、

互いに見えない時や、距離があるときにこそ、

イエスさまのまなざしを意識し、

真実と信頼に生きる者でありたいと願います。

どうか、言葉と行いにおいて、

愛と誠実をもって人と向き合う力をお与えください。

そして、すべての人との関係において、

聖霊さまの御前で歩むことの大切さをいつも思い出させてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。


決して無関心ではない

2025/07/20

 

 

"神はラケルに心を留められた。神は彼女の願いを聞き入れて、その胎を開かれた。"

創世記 30章22節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

解説

長年不妊に苦しんだラケルが、ついに神に「顧みられた」と記されます。神の時は人間の時と異なり、忍耐と信仰が試されます。私たちも「神は沈黙しているように見えるときも、決して無関心ではない」ことをこの言葉から深く学べます。

 

祈り文

恵み深い天の父なる神さま、

神さまは沈黙の中でも、私たちの祈りを決して忘れず、

ラケルを顧みられたように、時にかなって応えてくださるお方です。

願いがすぐに叶わず心が疲れるときも、

聖霊さまが共にいてくださることを信じ、

忍耐と信仰をもって待ち望むことができますように。

叶えられても、そうでなくても、

聖霊さまの恵みに感謝する心を私たちにお与えください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。